建設ジャーナル
建設ジャーナル
 会社概要
 会社理念
 お問い合わせ
▲トップ 
 
  ■社説

945社説 賢人になってもらうために
突然の巨大地震と巨大津波に襲われた東北・関東の太平洋沿岸地域、まるで映画のワンシーンのような映像が映し出されたが、まぎれもなく現実に起こっている事実である。把握できない犠牲者、被災人数だけでなく、被害の実態もきちっと把握できるまではまだまだ時間がかかりそうである。  
とりあえず出来る支援というところで、新潟県内からも行政や産業界も震災直後から動き出しているが、日本国民が経験した阪神淡路大震災や新潟県中越地震とはまた違う災害であるだけに考えるべき点も多い。被災地では機能をしなくなった行政も多くあるようだが、津波に全て流されて廃墟化した役所もあり、時間が経つにつれてさまざまな問題も出てくることが予想される。  
災害直後は命と救出、そして避難、安否が問題となるが、時間と共に被災者の避難環境が問われ、そして被災者の生活が今後問題となって出てくるだろう。被災地域があまりにも広いだけに、さらに原子力発電所の問題もあるだけに、政治として、行政として、そして国民としての冷静な対応が求められる。  
原子力発電所の報道を見ても、テレビ各局の報道の仕方で落ち着いた対応も出来るし、不安な気持ちで気が動転してしまうということが周りでも起きている。マイクロシーベルト、ミリシーベルト、そして人体に重大な影響を与える数値、被曝(被爆でなく被曝)など、いかにも今大変な環境に自分がいるように錯覚をしてしまう人もいる。発表される数値は測定している箇所での数値であり、通 常の何倍という、その何倍という倍数が問題ではないことをきちっと伝えないと誤解が不安を助長してしまう。  
恐ろしいと不安をあおることが報道なのか、正しく伝え、国民が正しく理解する賢人になってもらうための報道なのかを考え、また国民も選択していかないと、責任追及と責任のなすりあいの社会になってしまうのではないだろうか。  
災害後の、互いを理解し、助け合うことのできる日本国民を次代にも残していくためにも考えるべきことである。
944社説 現実を示して理解を
昨年12月から今年1月の降雪は多くのことを考えさせられる。驚いたのは直轄国道49号(福島県会津地方)や9号(鳥取県)、8号(福井県)での交通 不能、ドライバーが車内に閉じ込められるという事態である。それだけ予想を超えた降雪があったということだが、今後、今年の降雪を教訓とした体制が取れるのかである。  
地域の基幹道路である直轄国道での除雪体制は万全だと多くの国民は、住民は理解をしているし、安心もしている。常に交通 を確保するため、降雪時でも除雪をしながら車が通れる状態を確保することが管理者の使命でもある。  
それが出来ないという現実の事態が発生した。「予想以上」「予想外」は初めての事態では通 用するし、確かに予想を超えた降雪がこの事態を招いたのだろうと思う。問題は今後の問題である。二度と「予想以上」「予想外」という言葉を使うことはできないだろう。同じような状況が発生した場合、どのように対応し、説明をしていくのか、それを国民がどのように判断するのかは難しい問題である。  
二度と同じようなことのないように「除雪体制を強化する」、「体制を強化しろ」ということをいうのが極めて正しいように思えるが、果 たしてそうだろうか。除雪機械を増強し、不測の事態に備えることは簡単ではない。体制を強化しても、同じような降雪が何年に1度あるかどうかも分からない。なければ今度は無駄 な体制、無駄な投資との批判が出てくる恐れもある。  
過去の降雪実績、平均降雪の下での体制、その中での想定される不測の事態を予想して考えなければいけないわけで、そういった体制の現実を国民、住民に示しておく必要が本来はあるのだろう。  
どこまで対応できるのか、出来ないのかが明確でなくて、その中で万全な対応を取ることは無理だろう。今後ますます建設産業が疲弊するのではという危機感が現実の問題としてある中で、もっと体制の現実と可能な事実を明らかにしていくことが、住民と行政の互いの正しい理解につながるはずである。
943社説 現実に即した制度必要
 決めたことをやり遂げる。それは当たり前のようだが本当にそうなのだろうか。すなわち、決められたことが正しく、間違いのない、現実に沿ったものであることがそこには必要である。そうでなければ柔軟な対応がやはり必要だということだ。  
建設では設計通りに行う、設計で指定したものを使うことは当然であるが、例えば、生コンの配合で指定したものを打設する時に、この配合では送れないとなって、現実に即した、品質も確保できる変更をある程度柔軟に以前は行ってきたはずなのに、今回は認められないという。そこには発注者側の理由もあるのだとは思うのだが、業者関係者とすれば、現実的に考えての提案を出しているわけで、やれないことをやれという、無理難題を押し付けているとしか思えないということである。  
設計し、積算をして発注をする。当然そのとおりにやることが必要ではあるが、発注者側も受注者側も気付かず、工事の実施段階で矛盾が出てくることが絶対にないとは言い切れない。  
建築で、現実には非常に難しい設計図をコンピュータは簡単に書上げる。それを現実にやることは不可能とは言わないが、通 常の倍の手間ひまがかかるのに、積算では通常の金額で行われていて、変更もなかなか認められないとの話も聞く。  
決めたことをきちっとやることは当然だが、それが絶対ではないことも当然として考えて、柔軟に、即対応できるような体制をつくることが必要だろう。  
なぜ違ったのかの責任を追求するよりも、より良いものを適切につくるために、必要なものは必要として、変更すべきは変更をしていく体制をつくらないといけないはずだ。それらが現実には当然あることとして、見えることが必要である。  
施工者の負担の軽減という言葉もよく聞かれ、さまざまな対応も取られてきてはいるようだが、誤解やミス、間違いを現実の対応として直ぐに取ることができる制度、発注側の担当者が適切な対応を直ぐに取れる現実的な制度をつくることがさらに必要ではないだろうか。
942社説 今考え、やるべきことを
 馬淵国交大臣に代わり大畠章宏国交大臣が就任した。社会資本整備重点計画や建築基準法等、建築法関係の見直しなど、さまざまな課題が存在するが、日本の将来を見据えてのしっかりとした取り組みを新大臣には求めたいものである。そして、社会資本整備の重点というなかで、地方を軽視するような世論の流れに結びつくことのないよう願っている。  
財政再建はだれもが納得する政策ではある。無駄を無くすることも、だれもが「当然やるべき」という。お金がなければそれ相応に支出を抑えなければだめだということは、先にめどがなければ当然ではある。しかし、国の政策とはそうではないはずだ。個人個人の目線で考えることではないはずである、負担は少なく、サービスは多くということが、今後も続けられないことを、何となく国民も理解しているはずであり、「何とかすべきである」と考えている人も多いはずであるが、今は、負担は少なく、サービスも少なくという、「我慢をしろ」という流れをつくっているだけで、何の展望も抱けない国民を増やしているだけである。  
求めることは、国としての将来ビジョンを掲げ、国民の将来を考えて政策を進めることの必要性である。そして、ビジョンに伴った予算措置も考えていかなければ意味がない。立派なビジョンと計画を掲げ、国民に将来への展望を示しても、それが確実に実行されていかないとなれば、何の意味もない。落胆が大きく、逆に希望を失ってしまうことにつながる。  
国民が将来に希望を持てるように、負担もサービスも考えていくことが必要ではあるが、その中で、国民の多くが生活をする大都会の価値観だけで政策を進めては、将来に大きな負担を残すことも考えて取り組んでもらいたいものである。  
投資効果の少ない公共事業は無駄な投資、経済効果にもつながらない、将来に借金を残すだけと考えたとしたら、日本の将来はどうなるのか。今やるべきことを怠れば、将来にその負担を押し付けることだけでなく、国民全体が豊かになる機会を遅らせて、さらに大きな負担を残すことにつながるのではと危惧をする。
941社説 可能性を探り、夢を持て
国土交通省は2社以上の建設企業が連携強化を図り、技術者等を新規に採用することにより、維持管理、エコ建築、リフォーム等の成長が見込まれる市場の開拓を図る事業を支援する「建設企業の連携によるフロンティア事業」を実施する。助成額は1千万円を上限とし、事業期間は平成24年12月末まで。募集期間は23年2月15日〜28日。同事業の説明会は1月から全国で行われ、北陸では1月23日に新潟市内で実施予定。  
なかなか難しい建設業の企業連携を促し、経営基盤の強化につながることが期待されるが、予定事業期間の過半を超える期間で新たに1人以上の技能者や技術者、若年者などを常勤雇用して、期間の終了後も雇用を継続する見込みがあることが条件となり、雇用対策も一つの目的となる。  
建設産業に対する支援だが、12月に事業を公表し、1月に説明、2月には募集となると、何も計画、検討をしていない企業にとっての応募は難しい。2つ以上の企業が以前から摸索をしていればともかく、急に募集があるから、さあやろうとはなかなかいかないのが現実ではないだろうか。  
今後もこのような助成や支援策などが出てきた場合、直ぐに具体的検討ができるようにしていれば、一気に前進することも可能なわけである。今回の助成事業だけでなく、さまざまな支援が国、県、また市町村にもあるが、建設業としての可能性を、企業として、業界として検討する場を設けることが必要である。  可能性を探る努力は、何かの切っ掛けで花開くことにもつながるはずである。努力が報われないとなればむなしくもなるが、努力がなければ、夢を持てなければ、差し伸べられるその手に対して、手を伸ばしてつかまることもできないわけである。  
マイナス、削減、無駄と夢がなかなか持てない現実の社会ではあるが、企業として、業界としての希望と夢を持ち続け、今の社会に対して未来への希望が持てるようにと強く求めていくためにも、元気良く声を出し続けようではないか。
940社説 事業が出来なくなるのか
全国知事会地方の社会資本整備PTが、11月12日に要請した「社会資本整備予算の確保に対する緊急声明」で求めたのが社会資本整備予算の今年度予算並みの確保と費用便益分析を予算縮減の道具とせず、事業評価では地方の意見を聞き、地方の実情を反映する仕組みづくりを進めろということである。  
事業評価において、費用便益分析の厳格化が「事業仕分け」で強く出された点と、それらが来年度予算の削減理由となり、さらなる公共事業費の縮減に反映される危機感があることから、特に費用便益分析では人口減少の続く地方にとっては厳しいことから、地方の声としても強く求めなければならないことである。  
費用便益比(B/C)は厳格にということは、当然のこととして求めることは理屈としてその通 りであるが、公共事業の役割として、それは当然のことなのか。事業仕分けではB/Cが1を超えればよいという発想もおかしいという話だが、人口が少なくなった地域には公共としての仕事はしないよということであり、人が少なくなったら都会に出て来なさいということか。  投資効果、確かにそれは分かるし必要なことだが、地域の状況は、住民の声は聞く耳持たない、数値だけで判断するというような政治、行政が行われるとなると、日本の社会はどうなるのだろうか。お金がないからしょうがないで済ませることを、本当に国民は受け入れているのだろうか。多くの国民が受け入れているのかというと、決してそうではないと思うし、ただ、国には多くの借金があるから我慢しなければだめだと思い込んでいるだけで、声が出ないのではないか。  
事業仕分けで投資効果が小さいと、地域での事業廃止が、その事業の便益を受けない人たちによって簡単に語られたらと思うと、本当にそれでいいのかと思う。その事業の廃止で多くの国民は困らないが、その地域の人が必要だといっても大きな声にはならないわけであり、そのようなことが各地であれば、人口減少の進む地域の事業は本当に出来なくなるのか。考えるべき大きな問題である。
939社説 無駄を言い過ぎる結果が心配
安ければいい、無駄だ、そういったことを簡単に言い、行うことは、共に支え合う社会を本当に求めてのこととは思えない。それは自分中心のものの考え方であり、共に支え合う社会を否定しているように思える。  
決して無駄を肯定しているものではないが、行き過ぎた無駄 の排除は社会を壊しかねないと心配をするだけである。  無駄な公共事業、公共事業は不要であるとアピールし続け、公共事業予算は大幅に削減されてきた。その結果 、何が起こってきたのか、何が起ころうとしているのかを考えぬ ままで、本当にいいのだろうか。このまま公共事業は減らしていく方向でいいという答えを出すことで、また何も考えないで、将来のある子供たちに責任が取れるのか、胸を張れるのかである。  問題があれば「行政が解決してくれたし、これからも解決してくれる」と、国民全体が、住民が安心しているとすれば、果 たして今までどおりにやってもらえるのかである。  
予算があって国民や住民のために対応をしてきたわけであり、「予算は減らせ、行政サービスは充実しろ」ではやれないということが現実としてあるわけである。そして、行政が実際にやれず、民間の力を借りること、例えば公共施設の建設、維持管理、除雪などを「安くやれ、品質は良いものにしろ」といった矛盾を求め、それらを社会のために、住民のためにと胸を張って良いものをつくろうとする企業が存在できなくなれば、きちっとした行政サービスとして提供も不可能となる。  
行政も含め、行政サービスに関わる者が、頑張ろうという気持ちが薄れてしまっては、戦後構築されて、進化を続けてきた今の社会を大きく変えていくしかないのだろう。やはり努力が報われる社会でなければ、社会は維持できなくなるのではないだろうか。  
無駄だ、無駄だといい続ければいい続けるだけ、社会は崩壊の方向に進んでしまうのではと心配をする。今は無駄 と言われるかもしれない無駄が文化を、産業を育ててきた歴史もあるのではないか。
938社説 切っ掛けを考える必要が
人口減と高齢化が加速している地方に、多くの若者が魅力をみいだしてくれるためには何が必要なのか。自然が豊かで、自分たち家族が食べるだけの米をつくり、野菜をつくり、にわとりを飼って、山菜やイワナを獲ってという自給自足の生活ができるといっても、そうした生活を望む若者はほんのごくごくわずか。  
家からちょっと出ればコンビニがあり、賑わいのある商店街などでショッピングができる、併せてアウトドアスポーツや豊かな自然を感じることができる。決して大都会の生活を望んでいるわけではないけれど、ほしいものが簡単に手に入る生活をどうしても求めてしまうだろうし、人の欲望がそうした社会を求めつくってきたわけである。  電気を自由に好きなだけ使える生活、スイッチを入れれば灯りがつき、冷暖房も入る。蛇口をひねれば飲むことのできる水も好きなだけ使える。テレビやラジオ、インターネットで世界の出来事を知ることができる。何でも手に入る時代のように見える現代社会だが、決してそうではなく、この社会を維持し、さらに発展させるための努力がさまざまなところで営まれていることを忘れてはならない。  
なぜこんなに安定した電気を安く使うことができるのかなどを考えてみるべきであり、どれだけ多くの関係者が関わっているのかを知るべきである。お金を支払っているのだから当然だ、ではないことを考える必要があるだろう。  問題があれば供給側の責任として追求されるわけだが、その努力を知ることと、責任を追及することをいっしょに考えなければ本来いけない話である。  
また、サービスをする側が、社会的責任として、結果だけで責任を果 たそうとすることだけでいいのか疑問である。良いことだけをアピールするだけでは、そのサービスのすばらしさを知ることができない。なぜこのようなサービスができるのか、サービスを行うために何をやっているのかを含め、現在の課題、将来の課題も伝えて、考える切っ掛けをつくることも、今社会として求める必要がある。
937社説 現状を語り合う場を設けろ
10月は紅葉を前にして一気に冬の寒さが訪れた。今年の雪は例年以上になるのではと心配の声も聞かれ、除雪は当たり前という社会となり、永遠にそれは保証されていると思われている。市民ニーズに応えるために、それぞれの立場での苦労があることを、もっと説明し、住民からも認識してもらう必要がある。  
雪が降る保証はない。降らない保証もない。何千万円の機械を保有し、除雪に備えることは大きな負担であることは間違いない。降雪量 が少なくなっているといっても、除雪が必要な範囲も時間も、雪が降れば同じであり、1台の機械で1・5倍の範囲をまかなってもらうことはできない。すなわち、体制としての機械、オペレータは一冬の雪の量 に関わらず確保しておかなければならないし、台数も人数も変えられないわけである。  
もちろん、除雪の時間が遅くてもいいよということになれば、一台の機械の範囲を広げ、時間を1時間で終えていたのを2時間かかってもいいよということもできるが、そういった了解が住民から得られるかである。  
降雪量が少なくなることは、一冬の機械の稼働率は落ちる。当然出動しなければ収入も落ちる。機械を所有し、維持し、収入が減れば、機械を所有して赤字になるなら除雪はやらないよと請けない方がいいのは当然である。そんな企業が増えれば当然発注する道路管理者が困ることとなる。  
例えば、市でいえば、直接担当する、例えば土木部などが、何としても対応しなければならないが、首長から大丈夫かと言われれば、大丈夫ですと言わざるをえない。形だけは整えても、以前のようなサービスは、ニーズに合った除雪は難しいと考えるのが当然だが、住民がそれを理解するはずもないだろう。  
これは現実の問題であり、こういった事態を解決するには、現実を知ってもらい、税金をどこまで使うのか、業者の選定をどうするのか、住民側の現状、行政の現状、業者のオペレータの現状を語り合う場を、避けずに設ける必要がある。
936号 歴史から真実を知れ
内需拡大が必要だということは、今の日本の経済状況をみると、また地方の状況をみると強く求めていくべきことであるが、なぜ大勢にならないのか不思議である。  
今の世の中、泉田知事が語るように、日本国民はなぜか悲観論で支配されてしまっている。やはり将来に希望が持てる国であるということの、自信を国全体で持たなければだめであり、雇用を生み、設備投資を誘導するためにも内需の拡大策に早く取り組むべきである。  
10月26日、南魚沼地域4商工会の50周年記念講演として、南魚沼地域商工会連絡協議会と新潟県を豊かにする会共済の泉田知事を囲む懇談会が旧塩沢町で開催された。その中で泉田知事は、「日本はもっと大きな可能性を持っているのに自分たちを過小評価し、先行きに不安を持っている」として、昭和恐慌前後の歴史的事実を含め、歴史が教えてくれている 今取り組むべきこと、そして、これから起こる食料危機に向けて考え、取り組むべきことなどについて語った。  
世界恐慌後、最初に日本経済は回復したが、それをやったのが高橋是清蔵相で、地方の公共投資と軍需拡大。すなわち内需拡大で日本経済を救った。恐慌以前は慢性的不況で、財政再建が10間行われて、デフレの状況。世界恐慌で一気に企業が倒産し、首切り、賃金が下がった。その後の内需拡大策で実質GDP6%の成長になった。  まさに今の状況と似ているが、米国も欧州も国債を発行して中央銀行に引き受けさせ、ドル安、ユーロ安対策を取っているのに、円だけが円高になっている。その結果 が今の日本の経済ということだ。  
国債も日本銀行券も、両方とも国の借金、その借金は国民の財産であることを理解できないから、国債を家庭における借金と同じと勘違いしているところに今の日本国民の不幸があるということである。財政再建、無駄 なものはカット、何か正当の意見に聞こえることが、簡単に公共事業を削ってお金が生まれるように錯覚をしてしまっている。知事の言うように、早く真実を知ることである。
935号 危機管理の基本は人と企業
地域の危機管理をどのように考えるのか。不測の事態に対して迅速に、的確に対応出来るように事前に準備をしておくことではあるが、想定された対応には万全を期しているとはいえ、問題がいろいろと出てくるのも現実である。そこを臨機応変に対応して、判断と行動ができるかである。  
しかし、地域の危機管理において、地元の行政だけでその対応を行うことはできない。地域の企業や住民の協力があればこそ、その対応がはじめてできるわけである。その中で、建設業が果 たす役割は非常に大きいのである。  不測の事態もさまざまあるが、分かりやすいのは地震災害や豪雨災害。一般 的に消防や自衛隊などが被災現場で活躍する姿はテレビ等でよく見るが、建設業が出たとしても、儲け仕事としてやっているのだろうとしか見られていないのが現実のようである。  
それが仮に儲け仕事であったとしても、消防も自衛隊も仕事である。自分の家も壊れ、家族も被災していて、それでも地域の道路や、堤防の復旧に汗水流し、「地域の被害を出来るだけ少なく、1時間でも早く元通 りの生活ができるように」と頑張る作業員を「金儲けのためだろ」と言えるのかである。  
地域のために、自分のできることを率先してやってくれる人や企業を地域として持つことが、本当の意味での危機管理の基本ではないだろうか。いくら立派なマニュアルをつくっても、指示を出しても、お願いをしても、動く人がいなければただの作文にすぎないのである。  
建設業は企業として、当然利益を求めなければならない。相応の利益があればこそ、地域のためにやれることができるのだ。また、働く作業員も相応の所得があればこそ、自分の家を後回しにしても、地域のために貢献できるのである。災害時は契約をしているから直ぐに復旧に向かっているわけではない。「まずは、早く何とかしなくては」という思いが行動になっている。決して責任と義務が課せられての行動ではないことを理解し、地域の危機管理も考えていくべきである。
934号 地方から叫び、訴えよう
一般市民からみれば、公共事業は大規模ダムや河川工事、高速道路、長大橋、大規模施設などがイメージされるが、維持修繕や改修・管理などは公共事業というイメージが薄い。今ある社会資本をきちっと使っていけるように維持し続けることが地域にとっては重要であるはずなのに、それは当たり前であるとして公共事業は無駄 だという言葉になぜか共感をもってしまうようになってはいないだろうか。自分の生活に直接関係のないダム事業や住宅も少ないのに立派な道路は、その恩恵を受ける地域の実情を知らない人からは見れば、無駄 な公共事業というレッテルを貼っても不利益を受けない。  
貴重な税金を使う公共事業は、高い効果が得られるものだけをやるべきだという、何か当たり前のように聞こえるが、無駄 だと言われて予算が削られ、今やっているものを早急に終らせるということで集中的に予算を配分する分、それぞれの地域の住民が求める道路改修や歩道整備、大量 の雨が降った場合、災害の危険がある河川の事業や砂防事業などの予算に大きな影響が出ているのが実態である。もはや、住民が求める歩道もいつつくれるかわからない。予防事業もできず、いつ災害が起きてしまうかわからない。住民のために基本的にやるべき公共事業が出来ないことに対して、維持管理の点も含め地域住民は、公共事業は無駄 だと世間が言っていると、何となく納得してしまっているように見えるが、本当にそれでいいのだろうか。  
財政状況が厳しいのだから公共事業は我慢しようという考えももちろんいいが、社会基盤が成熟している大都会と、地方の実情は違う。ましてや雪が降り、除雪をしなければ生活もできない地域の人々だけが我慢をしなければならないという理由がどこにあるのだろうか。  
地方に行けば行くほど、地域の経済を支えているのは下請産業であり、中小企業であり、一次産業、そして建設産業である。それら産業と生活を支える公共事業そのものが地域の未来へとつなぐ大きな役割を果 たしていることを考えて、まさに地方から叫び、訴えよう。
933号 考えるべきことがあるはず
円高による経済への影響が心配されているが、日本経済を支えてきた輸出産業がかつてない痛手を負うばかりでなく、生産拠点の海外移転がますます進むことによる国内への影響が心配されている。  
企業は円高による為替差損から利益確保が難しい日本国内における生産から、生産コストが低く、利益確保が可能な海外に生産拠点を移転させることを当然選択肢の最有力候補として考えるのは自然である。  
日本から海外に生産拠点が移ることは、日本にある工場が廃止または縮小され、雇用の場が失われることとなる。企業としては国外への選択で経営が安定し、さらに大きく飛躍するかもしれないが、日本という国の力そのものが大きく損なわれることとなる。  
公共事業が削減され、さらに地方にある工場が撤退していくということが続けば、地方に若者がいなくなり、就職難民がますます増えるおそれもある。円高の影響は企業の為替差益や差損の問題だけではないわけで、日本の国全体の問題であり、特に将来の地方、近い将来の中山間地域の集落の問題でもある。各企業が、円高の中で、利益追求による国外展開に走ったら、問題は一層深刻となると覚悟しておかなければならないだろう。  
国内の企業、それも国内における技術と技能、生産ノウハウ、生産システムそのものの足腰をしっかりと守らなければ日本の将来は暗いといわざるを得ない。だからこそ今、円高対策をしっかりとやり、真の内需拡大を求めるべきではないだろうか。将来のために必要な、波及効果 の大きい公共事業を今しっかりと行い、大都市だけでなく、国全体でお金が流れる、回るようにすべきである。  
国の将来を、また、自分たち地域の将来をどう考えるか、その答えは一つだけではないが、儲からなければ企業(生産拠点)は国内から出ていくし、生活できなければ生活の出来る場を求めて地方から都市へと出て行くことになる。一旦出ていったものを簡単には戻せない。そうならないためにそれぞれの地域でも考えるべきことはまだまだあるはずである。
932号 安全・安心のための予算確保を
 国土交通省から「深層崩壊」に関する全国マップが公表され、今後同マップに基づき地域レベル、小流域レベルでの評価のための調査も行われる。発表資料によると、表層崩壊に起因する土砂災害危険箇所数は全国で合計51万4019ヵ所、うち新潟県には7931ヵ所、箇所数では全国の30番目。深層崩壊箇所として紹介されているのは、新潟県で1978年5月18日に融雪により発生した南地獄谷白滝上流の崩壊(旧妙高村)である。  
新潟県における表層崩壊推定頻度区分は、「特に高い」が3%、「高い」7%、「低い」74%、「特に低い」が16%となっている。全国的に「特に高い」の割合を有するのは22県で、その割合が30%以上と高いのは長野県や宮崎県、奈良県の3県。  
新潟県は「特に高い」が3%だから安心ということではない。この数字はあくまでも地図上での簡易な調査で相対的な各区分頻度を推定したもので、「低い」という評価でも深層崩壊災害が発生する危険箇所は県内でも約8千ヵ所存在しているということであり、「低い」から起きないということではなく、災害が発生するかもしれないという箇所の安全度を上げる努力を怠ってはならない。  
地球温暖化により雨や雪の降り方も荒くなっている。今後ますます温暖化による影響が現れてくると言われているし、過去に経験のない1時間雨量 や連続降水量というものも、現実のこととして考えておかなければならない。だからこそ安全に、安心して暮らせる地域づくりを着実に進めていく必要があり、着実な対応、をしていくためにも、公共事業予算の一定量 の確保と、地方への予算の配分を確実に確保していく政策が必要である。  
災害が発生すれば膨大な復旧費が必要となる。深層崩壊で川が堰き止められれば、さらに甚大な被害も予想される。着実な予算の確保と着実な対応で、被害を未然に防ぐことにつながるとしたら、国民のお金を無駄 な使い方とはだれも言わないだろう。災害が起き、復旧に使うことこそ多くの無駄 が発生するのだから。
931号 減らす影響を国民に示すべき
参議院選における国民の審判は民主党にとっては厳しい結果 となって表れた。初めて国政を担当することで、自民党政権とは違いを大きく出したいという気持ちは分からないわけではない。違いを出すことが全てだめではないが、本当に変えることがいいのかという疑問のあるところも多い。マニュフェストとして国民に約束したからと、強引に実行することが本当にいいのか、また、マニュフェストで言ったじゃないかと追求することも本当に正しいのだろうか…。  
現代社会はデジタル化して、1か0で区別し過ぎているのではないかという気がする。ダム建設は無駄 だ、公共事業は無駄なお金の使い方となれば大きく予算を削り、工事中の事業予算までカットしてしまう。そして、実際にどうなのかということのきちっとした議論もなく、それが正しいように国民は何となく納得しているわけである。厳しい財政であることは間違いないが、公共の事業を大幅に削ることでの国民への影響が全く示されていないのではないだろうか。  
雪国では、「建設業者が疲弊し、除雪体制もこれまでのようには維持できない、除雪の遅れや迷惑をかける可能性がある」ということは言わないで、行政も住民の要求に応えようとすることが本当に正しい情報公開なのか。〇〇については我慢してほしいということをきちっと示す中で、公共事業のこの部分を減らすという説明がないと、国民の知らないうちに大変なことにならないかと危惧をする。  
先に、九州を中心に豪雨災害が発生し、想定を越えた土砂が流出して大きな被害をもたらした。百年に一度の豪雨でも大丈夫なようにつくられた砂防ダムが機能しないくらいの土砂というから、まさに想像をはるかに超えたものだということになるが、新潟県内では大丈夫なのか。土砂災害危険箇所が約1万件あり、危険だということを周知しているからいいということでは済まない。地球温暖化で確実に豪雨が増えているが、着実に進めていくべき事業は存在する。公共事業の削減は、被害を受けるかもしれないと予測される住民にとっては深刻な問題である。
930号 実験を正しく評価すべき
高速道路無料化の社会実験が6月28日午前0時から全国37路線、50区間、新潟県内では日東道の新潟中央IC〜胎内荒川IC間で始まった。  
無料となれば当然メリットを受ける人が出てくるが、逆にデメリットとなる人も出てくる。実験の成果 がどの視点で行われるのかで評価も当然違ってくるわけだが、一部の実験だけでは本当の答えは出てこないと思われる。  
無料化で流通コストが削減される、交流が盛んになり、経済効果 も大きいなどと言われるが、コスト削減や交流が本当に求められることなのかである。もちろん安くなる。人が多く訪れることに対して反対をすることではないし、良いことであろうが、やはり今必要なのは地方に多くの人が残る、残れる環境づくりではないのだろうか。人情あふれる商店街があり、若者が子供を育て、老人になるまで豊かに、安心して住める地域づくりが求められているのではないのだろうか。  
高速道路はやはり高速道路としての機能を持たせてほしい。無料ということは一般 道路と同じこととなり、利用者として差別化できなくなる。全体の渋滞緩和には効果 があるだろうが、一般道路ではこの時間帯渋滞が激しいので、お金が掛かっても早く目的地まで行きたいという選択肢がなくなる。信号がないだけ早く着けるが、出口で渋滞しては高速道路を選択した意味がなくなる。流通 についても高速道を選択するという差別化ができなければ、価値が評価されないものも出てくる可能性がある。  
一旦無料化され、他の公共交通にじわりと影響を与え、元に戻そうということができるのか、採算問題で廃線となった鉄道も多くあるが、鉄道の高速化も言われる羽越本線、今回の無料化実験は新潟―村上間にどう影響するかはわからないが、鉄道から車にという流れに導くことが本当に将来のために良いのかだ。  
地球環境問題、高齢社会、都市への人口集中、経済問題、維持管理費問題など、様々な問題を勘案しながら無料化の選択が方向として正しいのかどうかを、評価するに当っては考えてもらいたい。
929号 まず理解してもらう必要がある
新潟県が最低制限価格を90%以上に引き上げ、それは大いに評価されるわけだが、さらなる引上げが求められる。一般 の人にとっては、なぜそれが評価されることなのか、なぜさらなる引き上げなのかという疑問も持たれるかもしれないが、一つには公共事業という性格から、工事を赤字でやってもらっても意味がないからである。  
赤字工事が行われるということは、企業の経営を圧迫することとなり、最悪の場合は倒産にもつながりかねない。特に公共の役割を担っている企業の倒産は地域社会に大きな影響を与えることとなり、関連企業への影響も大きい。  
しかし、受注した企業が積算を大きく下回る金額で請けたとしても、工事が出来ないことではないし、赤字でも施設はつくられる。直接受注をした企業自体が赤字にはならないということもある。むしろ現場で事故や問題が起きなければ、利益は出ないとしても、何とか工事は終ることが多いと思われる。受注企業としては、工事をやることで、厳しくとも企業の維持は可能であるかもしれない。  
赤字工事で、なぜ赤字にならないのか。それがマジックでもある。下請に厳しい金額でやってもらう、資材を安く叩き、赤字を分散することが手っ取り早い方法である。「それで出来るのだからいいではないか」ということをよしとすれば、どんどんと工事価格は下がってくる。人件費も下がってくる。公共工事の積算基準は実際の価格を調査して決められるから当然である。定価で積算され、競争をしているわけではないだけに、デフレスパイラルの世界そのものが今の建設産業だ。  
一番の問題は、働く人の所得が下がり続けること。技術や技能の評価が無視され、適正な価格とならないで、価格が下がり続けることだ。工事の難易度も全く無視されているという声も聞かれる。  
最低制限価格を設けることは必要である。しかし、それが設けられているからいいということではない。標準価格が予定価格であるのに、それ以下が当然という意見が正しいということではないことを、まず理解してもらう必要がある。
928号 新潟港を拠点港湾への声を
本州日本海側初の政令指定都市新潟が誕生したのは平成19年4月、それから3年が過ぎた。そして、今年度は平成17年3月の大合併によってつくられた合併建設計画の後期がスタートした。    
時代は大きく変わり、日本の貿易相手国も米国以上に中国を中心とした東アジアとの関係が強まっており、東アジアとの関係なくしては日本の発展もありえないとまでになっている。世界の貿易において、東アジアにおける国際ハブ港湾機能をいかに持つかということで、それがスーパー中枢港湾等の選定、さらに日本海に拠点港湾が必要だという前原国交大臣の話につながってくる。  
新潟港を日本海側の拠点港湾に―。今、千載一遇のチャンスでもある。企業を呼び込み、人を呼び込むためにも、新潟のまちづくりを含め、新潟県の発展を考えると新潟港が日本海の拠点港湾となることが絶対に必要である。これまで育ててきた東アジアとの関係を、芽を出させ、花開かせていくためにも拠点港湾にと強く訴えていくことが大切だ。  本年1月20日、新潟市で「日本海拠点港湾選定支援協議会」が発足した。会長には敦井栄一新潟商工会議所会頭が就任し、産学官一体となって努力していくとして協力を求めたが、拠点港としての発展は、新潟市、新潟県全体の産業、経済にも大きな影響を与え、大きく変われる要素でもある。建設産業においても、港湾整備だけでなく、さまざまな社会資本整備の需要創出や民需創出にも大きな影響を与えることとなるだけに、拠点港湾の整備を地域の発展、産業の発展の足掛りにできるように、また、雇用の創出、県民生活の向上につなげていくことが求められる。大いに活かす仕掛けをつくっていくことが、各地域、各自治体、各産業にも求められる。  
そして、建設産業の役割を考えると、地域需要に対しての、ノウハウを活かした提言、提案など、専門的な視点から話合いや議論に積極的に参加していくことが地域の一員として必要だろう。  
そのためにも、まずは日本海側の拠点港に「新潟港」をと、積極的に大きな声を上げていこうではないか。
927号 第一次産業を守らなければ
新潟県における第一次産業の就業者人口は約7・5%(平成17年10月1日)で、10年前に比べ1・6ポイント減っており、農業就業者は約13万人。全国的と比べても2〜3ポイント新潟県は高い。市町村別 でみると、離島である粟島が44・7%で、佐渡は24・2%。内陸では津南町が27・7%と高い。あと、10%を超えているのが村上市、関川村、胎内市、阿賀町、阿賀野市、聖籠町、出雲崎町、魚沼市、南魚沼市、十日町市、妙高市となっている。市町村名をみると、何となく第一次産業が盛んだとうなずけるが、今後、将来どうなっているのかが、高齢化、後継ぎ問題などもあって心配されるところでもある。  
産業として成り立たないから就業者も減っていくというのが自然の流れでもあるということで、IT産業や最先端産業、自動車産業等を発展させ、そういった産業が雇用を受け入れればいいということではないはずである。  
将来的な問題として、食料危機、エネルギー危機などが地球人口の大幅な増加や発展途上国の高度成長の中で、食料、エネルギーの奪い合いが、想像もつかないような危機としてやってくるかもしれない。今、考え、求められることは、出来るだけ自給できる国家にいかにしていくのかである。エネルギー問題については、電力の安定供給を支える水力、原子力開発を新エネルギー以上に考えていく必要がある。そして、食料問題等についても、第一次産業の農林水産業をいかに守るかである。それら産業に携わる人々が生活できなければ、当然維持はされない。大手資本が日本国民の食料と生活を維持していると思っているとしたら大きな間違いだろう。  
建設業についても同じで、国民生活には必要な産業であり、農林水産業地域にとっては重要な産業である。それら地域にとって、なぜ重要な産業であるかは、地方で生活をしなければ理解されないのかもしれないが、高齢化がますます進むそれら地域にとっては、地域を維持し、若者から一人でも多く地域に残ってもらうためにも互いがよきパートナーである。
926号
新潟県の産業を育て、豊かな新潟県づくりを目指す。昔から言われていることと言えば、言われていることである。  
Madein新潟新技術制度がつくられて4年目、4年目でやっと県の標準歩掛りの技術にいくつか入った。そして北陸地方整備局の今年度事業執行方針の中で、地域の新技術活用を打出し、新潟の同新技術制度登録技術を評価していく。  
一定量が使われ、その評価がきちっとされなければ標準歩掛りとはいかないが、新技術を使い、育てるための工夫がもっとあるはずである。せっかく選ばれて、登録されて、「なかなか使ってもらえない」という話をかつてから聞くが、使ってもらえない理由もそこには存在する。しかし、せっかく選ばれた登録技術、本当に使って評価をする場がないのだろうか。  
新技術を基本的に使ってみて、育てる。さらに改善点があれば提言し、本当にだれもが認める技術として育てるのだという出発点がなければ現実の中で消える技術も出てくるだろう。  国や県の事業では使って評価することは難しい技術でも、市町村工事や民間工事で評価される技術もあるかもしれない。それは各社の営業努力と言ってしまえばそれまでである。  
例えば、新技術を開発した企業のある市町村が、地元企業の技術として評価をし、県や国の協力で育てていく価値ある技術かどうかを事業の中で使って評価をしていくことが出来れば、新たな展開も生まれてくる。  県が取り組む事業だと、市町村が無関心のままでいたとしたら、せっかくの金の卵を温めて、ひなをかえさずに、埋めてしまうことになるかもしれない。  
県のこの制度が何のためにつくられ、取り組まれているのか。そのことさえも無関心でいたとしたら非常に悲しいことでもある。この制度がつくられて今年5年目に入るわけだが、一緒に地域を、地域の産業を育てる努力を県民共通 の認識で取り組もうではないか。  地域の企業も地域の技術も、地域の宝であることは間違いない。
925号 共通の認識を地域の中で
 新年度がスタートしたが、今年度の見通しが建設各社とも不透明となっている。事業があっても、入札の結果 は分からないだけに、業者は1年間の計画も不透明となってしまう。公共事業の工事量 も減少している中で、最低制限価格などが設定されているとはいえ、その設定によっては、無理に仕事を取ろうとすれば競争の中で適正な価格では応札できないのが実態である。  
地域における事業量が減ることは、当然そこで働く人も、企業も減っていかなければ一人当りの所得も減り、一事業所当りの売上も減少する。それは当然のことであり、それを受け入れるか、他に所得を得るところ、売上を得るところを求めていくしかない。だが、他に求めていくとなると、当然その地域にいた人も、企業もその活動が他に移ってしまうこととなり、地域からは人も企業もいなくなることとなる。その結果 、どういうことが起きるのかを地域として認識するかどうかで、地域の将来に向けた展望も違ってくる。  
それぞれの地域で産業構造も違っているが、その産業構造から見えてくることは多い。地域で成りたっている産業は、そこに住む住民の生活とは切っても切り離せないし、将来の地域を描いていくなかでも非常に重要であるゆえに、一企業という見方ではなく、地域の産業として、地域の一員として見ていかないといけないのではないだろうか。  
地域を守る、地域に活力をという言葉は簡単に言えるが、そのためにやることは何があるのか、取り組むことを絵に描くだけでなく、将来を見据えた現実的な取り組みを地域共通 の認識の下でやる必要がある。それは地元企業を地域のためにどう活用するかということでもある。企業の役割も含め考えていくことは多いはずだ。貴重な税金をいかに使わないかではなく、いかに将来に向けて、貴重な税金を使っていくのか、地域の中でそんな共通 の認識が持てれば、公共のお金の使い方も、発注のあり方も見えてくるはずだ。
924号 強いきずなをいかにつくるか
日本は農耕民族として、人々の輪で地域がそれぞれ成り立ってきた。今でもそうだ。と言いたいところだが、果 たしてこれからはどうか。  
少子高齢化、人口の減少、一極集中がますます進み、高齢化した地域の20年後を考えると、果 たしてどのような社会になっているのだろうか。地域の中でバランスのよい年齢構成がないと、地域としての先行きは暗い。  
畑を爺ちゃん、婆ちゃんが耕し、50代の夫婦が、父ちゃんは建設業で働きながら田んぼを守る。子供は東京の大学へ行ってそのまま就職し戻っては来ない。そんな地域で建設事業そのものが減り、民間の仕事も少ない。建設業に勤めていた30代、40代の従業員は仕事を求めて地域を離れる。高齢者率がますます高くなり、その20年後の地域の姿とは…。  
何もしなければ地域そのものが崩壊してしまうだろう。だからといって建設事業を以前のように増やせるのかということも難しい。であれば、地域の存在を、安全を、そして地域の農業を抜本的に考えないと難しい。所得保障で中山間地の農業をどこまで将来にわたって守ることができるのか。建設業の農業分野進出によって、そういった中山間地の農業をどこまで守ることができるのだろうか。  
それぞれの地域で事情は違うだけに、答えも一つではない。それぞれの中で答えを出し、地域として声を上げる必要がある。これまでとは違う社会がやってくる。これまでと同じ視点で物事を考え、取り組んでも効果 があるとは限らない。だからこそ、それぞれで考える必要があり、地域の産業としての建設業が、地域の一員として、その中に積極的に参加していくことが強く求められるのだろう。  
建設業が一企業としてではなく、地域企業としてその役割を果 たし、地域を守っていくためにもそういった積極的な取り組みが求められるし、地域からも、その役割を認めてもらうことが必要である。地域を守り、将来につなぐためにも、行政、企業、住民というそれぞれの地域の一員が、互いを認め合い、強いきずなをいかにつくっていくかである。
923号 相互理解があってこその問題解決
今冬、新潟市で豪雪により、バスの運休など交通への影響が大きな問題となった。今後の対応として「豪雪時における新潟市を中心としたバス交通 確保に関する検討」が行われ、その結果として3月25日に北陸地方整備局、新潟市、新潟交通 の三者が会見を行った。  
2月4日〜8日にかけて、多くのバス路線で運休や区間運休が発生し、その対応策が検討され、対応方針として、@中心部への始発バスの遅れの緩和、区間運休の解消 Aボトルネック区間発生による運休、区間運休路線の縮小及び早期の迂回路設定による遅れの緩和 迂回区間の優先的除雪による早期解消 Bバス路線数・バス台数の多い区間の除雪重点化による早期全線確保による遅れの緩和 C窓口の一元化による、情報錯綜の回避、早期の対応―が示された。個別 具体の対策については、関係機関で協議し、来冬前に決定するということである。  
この中で気になるところがいくつかある。この対応策で、豪雪の当日はバスが多少遅れてもやってきて乗れると、バスを利用する市民が思うことである。検討して対策した結果 にもかかわらず、バスが来ないではないか、乗れないではないかということにならないのかだ。  
遅れや運休の解消に対応することは基本だが、優先的除雪を雪の降った当日にどこまでやれるのか、道路幅員の狭いところは当然迂回路という対策となるだろうが、バスが走れるのか。当然一般 の車も広い道路に集中する。雪の状況を考えれば、通常より早く渋滞も始まる。その渋滞前に当然除雪をしないと意味がない。渋滞でバスが動かなければ輸送能力はなくなり、バスがたとえ来たとしても満杯で乗れない状態では解決しない。  
長期にわたるバスの運休は解消できるだろうが、当日はバスが来ない、乗れないということは覚悟してもらわなくてはいけないことをはっきりと言うべきだ。 また、具体的検討をする中で、関係機関全体として除雪業者の意見、利用者の意見、バス運転手の意見等を聞くことも必要ではないか。相互理解があってこそ問題の解決ができるはずである。
922号 危機管理と建設業をどう考えるか
「建設業が社会的役割を果たす」ということを、多くの人が「儲けるため」とだけしか思っていないとしたら、そして、「公共事業は建設業に儲けさせるもの」としか見ていないとしたら、それぞれ地域における安全と安心は確保できなくなるかもしれないと、覚悟をしておくべきだろう。会社を興し、利益の確保を怠れば企業としては成り立たない。しかし、企業が社会においての、その役割が存在するからこそ生かされているし、そこに働く人もやりがいを感じて、その社会的な役割を一生懸命果 たそうとしている。そこには当然その仕事に対する対価があって当然ではないだろうか。  
しかし、公共事業そのものが社会のためではなく、業者のためのように思われている。それは一部で、実際にそうは思われていないとしても、マスコミ報道や、国の予算編成を見てもそう思わざるを得ない。社会を構成している建設産業が正しく認識されないということが、今後社会にどう影響していくのか心配だ。  
全てが効率的に、無駄なものはなくせということは当然だが、公共事業の極端な削減で建設業が部分的に崩壊することがどう影響をもたらすのかをしっかりと認識していかないと、最終的には住民が困ることとなる。災害時や積雪寒冷地では特にその影響が顕著に現れるだろう。  
それは行政の責任において対応すべきだということになるのかもしれないが、行政も民間の力があればこそ責任を果 たすことが出来るのであって、行政としての限界はある。災害や今年のような予測以上の降雪があった場合、行政がいくらがんばっても、手足となって動いてくれる地域の建設業やそこに従事する技術者、技能者がいなければ行政としての責任を果 たすことはできないのである。  
災害時に自衛隊や緊急消防援助隊の派遣と活躍がマスコミに大きく取り上げられるが、それも地域の建設業が影で苦労をし、支えていたからである。  「公共事業を減らすのだから業者も減ればいい、だが社会的な役割は今迄同様に」とはいかないことを認識し、危機管理も行うべきだろう。
921号 地域から声を出すべき大きな問題
地方経済が活発になったと実感できるためには、やはり雇用問題が解決されないと難しい。働く場がないとなれば、若者もふるさとに残りたくとも残れないし、そうなれば高齢化はますます進む。  
中山間地域の農業は、ますます高齢化のために維持が困難になると言われるが、中山間地域における公共事業がなくなれば、建設業も今迄のような業者数も必要なくなり、建設業で働く若者も少なくなる。と言うよりも若者を雇うことができなくなる。若者の手が地域にいなくなれば、高齢者だけで地域の農業が維持できるのかというと、「農業が続けられるまでやるよ」と、先のない話となる。  
地域の農業を維持するために、新分野進出ということで建設業が農業進出に取り組もうということが言われるが、建設業を維持し、雇用を維持してということと合わせて出来るのかどうかである。工事量 の減少分を農業で利益を出し、会社そのものを維持できるのかどうか。雇用を守ることができるのかどうか。一定の工事量 があってこそ地域にも貢献できるのであり、困難なことが多いだろう。  
砂防・地すべり、河川、道路事業などが、農業以外に産業の無かった地方において建設業という産業を育て、そのことで地域での雇用を生み、若者が残り、そして地域の文化と生活そのものが守られてきたとすれば、公共事業そのものが地域の安全だけでなく、地域そのものを維持してきたと言える。公共事業の大幅な削減により、地域を守っていくもの(生活の糧)がなくなれば、限界集落へと転げ落ちるという事態にならないのか。  
「それは分かるが、決してそうはならない」ということで公共事業が減らされるのだとしたら、本当にその選択肢が正しいかどうかは、将来において結果 が出るのだろう。  
工事量は減るが、企業努力で新分野に挑戦すべきだと簡単に言えるが、地域によっては、企業だけの問題ではない。それぞれの地域の中で考えていくべき大きな問題であり、もっと全国に向かって大きな声を上げていく必要がある。冬の生活(除雪)を考えるとなおのことである。
920号 除雪の現実を行政から住民へ
今冬は暖冬で少雪だろうと言われていたが、近年にない雪が県内で降っている。新潟市内では交通 もマヒし、歩道も歩けないような状況にもなり、路線バスも運休し、地吹雪で100台の車が動けなくなるという事態にもなった。  
雪が降ると真夜中に除雪車が出動するが、それでも除雪が間に合わないということが現実にはある。少雪で除雪出動の回数も減り、オペレーターの経験が減っているのが現実で、特に新潟市内での除雪では、まったくないという年もある。そんな中での大雪である。魚沼や頚城地方のような除雪体制もオペレーターの経験もない現実ということを、当然分かっているはずなのに、「除雪がヘタだ」ということをよく聞く。  
暖冬少雪で、県内では除雪委託における課題がある。「除雪を請けると赤字になる。オペレーターの負担も大きい。除雪機械の維持・更新が出来ない」として、「除雪をもう請けたくない」という業者が多い。しかし、社会的な責任もあって仕方なく請け負っているという現実が多くある。新潟県等ではそういった現実を踏まえ、待機料や固定費などについての支払いを行っているが、それらだけで問題が解決するわけでもない。  
少雪と大雪、そのギャップがあると除雪体制の維持の難しさが今後ますます深刻となっていくことが予想される。  「雪が降ったら支障のないように除雪をしろ」、「雪が降らないのになぜこんなに除雪費がかかるのか」どちらも「その通 り」ではあるが、現実をしらないから言える言葉でもある。  
「住民生活を守るために除雪体制を確保します」というきれいごとで情報発信を住民にしているだけだとしたら、問題は深刻化するばかりであり、現実に対する住民理解は進まないだろう。  
「除雪の現状はこうなんだ」「住民の求めるようにはできないのが現実で、住民の協力が今後ますます必要になっていくんだ」ということを広報紙でもはっきりと伝え、理解と協力をこれまで以上に求めていくべきである。除雪に対する感謝の気持ちが芽生えるように。
919号 責任ある批判をすべきである
 2010年、明るい希望の持てる年となることを誰もが望むところである。そして、地域をどう維持していくかという課題に対し、どのような政策が取られるべきなのか。難しい課題であることは間違いないし、結果 はだれにもわからない。  
デフレ、雇用問題と深刻な年の始まりだが、夢をいだける社会となることが求められる。それぞれの地域社会が未来を展望できるのか、展望するために何を考え、政治に求めていくべきなのかを前向きに考えていくことが、新しい年を迎え、考えていくべきことである。  国内では人口が減少し、一方、地球規模では人口が急激に増えている。確実に食料問題が出てくる。エネルギー問題も大きな変革の時期がやってくるだろう。  
いざ事態が深刻となった時に考えればいいと、個人としては考えてもいいのかもしれないが、社会として見た場合はそれでは済まない。社会を大きく揺るがす深刻な事態となり、秩序のない社会へと変ってしまうかもしれない。そうならないためにも、大きな観点で考えていくことが必要であり、それだけでなく、それぞれが住む社会を、地域の現状を認識し、地域の歴史と文化にも思いをはせることが必要である。  
食料問題では、先人が苦労のすえに耕してきた棚田など、中山間地での農業を本当に守っていくべきなのかどうか。守るべきと言って、机上での対策で本当に守れるのかどうか。冬期間の生活の確保も同じようなことが言えるが、道路除雪はあたりまえだと言っているだけでいいのかどうか。地域に若者がいなくなれば、それぞれの役割を果 たす人がいなくなれば地域の将来は暗い。  
公共事業の問題もエネルギーの問題も、そして食料の問題も、一般 の市民にはなかなか理解されない部分が多いが、批判や苦情を言っているだけで社会が成り立っていくのかどうかである。現実の課題を認識し、その上で自分自身の考えを持つべきであり、現実を知ろうとせずに、批判することにも大きな責任があるということをもっと考えるべきだろう。批判には、責任ある批判を望みたい。
918号 やる気出してもらうことが必要
東京電力柏崎刈羽原子力発電所の7号機が年末に営業運転を再開した。平成17年の中越沖地震によって7つのプラント全号機が停止状態となり、今回の営業運転再開までにう余曲折があっての再開である。原子力発電ということで「安全と安心」が強く求められるが、さまざまな問題に対して、余りにも完璧が求められるために、過敏過ぎる報道や対応で、本当にエネルギーとしての原子力ということで理解が進むのだろうかと心配する。  
原子力発電所でのトラブルや事故は全てが放射能による危険というところに結び付けられる。放射能とは無縁のところでも、管理の問題点が問われる。管理がしっかりとしていないと任せられないということが理由だが、万一のための設計、何重もの安全対策が取られていることも事実である。だが、それがあるから大丈夫ということにはならないのは当然だが、大きな事故にならないように現実的な対応も取られていることを知るべきである。  
不安を言ったらどんなものでも不安はあるし、不安はないと言っても嘘となる。だが原子力に対しては余りにも神経質過ぎる点もある。現代の科学技術は理論だけで出来上がっているわけではない。推測と試み、そして失敗と経験によってあるのではないか。機器のトラブル、人為的なトラブルも失敗と経験となって次に生かされてきた。悪い部分が出てくることも、より安全に、より安心へとつながることとして、評価として見ていけないだろうか。叱咤激励を未来への力にしていくべきである。そのための努力を、未来のために行政もマスメディアも考えていく必要があるのではないだろうか。  
建設現場でも安全対策や指導を当然のこととしてやることが求められる。だが、産業界全体での労働災害は無くならないところに難しさはある。「安全を徹底し、事故は無くせ」と口を酸っぱく言うだけでなく、事故の起きない環境について、どうすればいいのかを考えるべきだ。仕事に対しての評価も、条件も十分に行ってこそ安全にもつながる。原子力に携わる者、建設に携わる者も、やる気を出してもらうことが、まず必要だろう。
917号 地域に活力を与える、考える意識
雇用問題、地域産業の疲弊を考えると内需拡大型の景気対策が強く求められる。そのためにも公共事業がその役割を果 たし、やられるべきだが、何が本当の理由かは分からないが「減らすべき」「安く発注せよ」という声に対しての賛同の声が大きく聞こえてきてしまう。  
いつの頃からか、業者と発注者との癒着が次々と明るみとなり、競争をさせればその構造が本来の正しい姿になるということでの取り組みが行われた。なぜ発注者と業者間にそのような関係があったかについては、日本の慣習にも起因していたのだろうか。  
地元企業から物を買い、地元企業がその利益を地域に還元してきた。地方の祭りやイベントなどが続けられたことにもつながったのも事実であろう。  
品物を納める地元企業が、順番に納めていたという例も少なくなかったのではないだろうか。しかし、それを談合として悪いこととして問題だと言われている。確かにそれは独占的な行為で、競争のないことではあるが、適正な利益のみで行われていたとしても悪いこととしか見られない。取引の中身は関係ないこととして「悪」のレッテルが貼られる。  
悪いこととなっているその行為があったからこそ、その地域の小さな企業が、その地域で存在しえたとしたら、その企業は競争の中で他の大きな需要のある都市の企業が算入することで競争に負けることとなるだろう。地域内の民間の需要だけでは企業として成り立つことが困難なところはたくさんある。地域から人が減り、企業を維持することができないために、競争に負け商店街や街中は歯抜け状態が目立つようになっている。  
競争をさせて、できるだけ安くということは理に適うことではあるが、活力ある地域として発展するために考えるべきことが、やり方があるのではないかと思うがどうだろう。否定することも、指摘されないで済ませることも簡単ではあるが、「今のやり方が一番いいのか、地域のために考えることがほかにあるのではないか」という意識が地域に活力を与える第一歩となるのではないか。
916号 地方で暮らすなということか
行政刷新会議の「事業仕分け」が約2週間にわたって行われ、公共事業の大幅な削減による影響が心配される。国土交通 省の来年度概算要求が09年度比14%減の約4兆9千億円で、この時点で工事費は09年度比でさらにマイナスとなり20%は減ると言われている。それに加えて事業仕分けによる削減や縮減等が現実になると予算規模で3割を超え、実際の工事費がどのようになるのかと危機感がつのる。地方移管と結論を出された下水道などの事業についても、地方が自主的になれるのかどうかも、予算面 を含めて極めて不透明である。  
12月末ともいわれる来年度予算の数字が実際に出てこないと「不安」の2文字は消えないが、ともかく建設産業としての企業体質の強化や経営基盤の確立などといった前向きの取り組みもできない状態が今の現実だ。  仕事はなくなるから海外へ出ろ、世界で稼げと簡単に言葉では言えるが、企業として、その技術力やノウハウを持って海外で仕事をできる企業もある。しかし、建設現場で働く人々が、建設現場を支える多くの下請企業、専門工事業が海外に出て働くことができるのか。すなわち、海外へということで、いかにも活路があるような言葉に聞こえるが、それは転業や廃業しろというのと同じである。  
公共事業により出稼ぎがなくなったと言われたが、仕事がなければたくあんをたくさん漬けて、じっとして暮らしていればいい、でなければ出稼ぎを始めればいいということを地方の建設業で働く人に言っているようにしか聞こえないと思うのだが違うだろうか…。  
「仕事を増やしていく」という言葉も、公共事業がまさに仕事を増やしていくということではないのかということだ。借金を増やすばかりと、確かにお金を使うということはその通 りだが、公共工事はただお金を使う悪だということでは決してない。その役割を自信を持って語り合うことがもっと必要である。減らされてきた公共事業、これ以上の削減は、「地方で暮らすな」というメッセージだとすれば、はっきり言った方がいいだろう。
915号 変動型は正しいやり方なのか
変動型最低制限価格の制度を採用している発注者がある。上位 何社かの平均に一定の割合を乗じて最低制限価格を算出している。ある意味理にかなっているようにも思えるが、適正な発注と言えるのかどうかは疑問である。  
調査された基準を基本に設計積算価格が算出され、その価格で受注しても儲けが出るか、それとも損をするかは分からない平均的な価格だということになっている。入札で今予定価格の98%だと談合が疑われるという見方がされている中で、入札で入れる金額は当然積算された価格よりも、無理をして安くしないと工事は取れないという構造になっている。しかし、無理をして安く落札してもらっても、工事の品質に問題が出るということから、調査基準価格や最低制限価格が設けられており、さらに総合評価も行われているが、少なくとも予定価格の9割以上でなければ品質は十分に確保されないとの発注者の大方の見方である。  
変動型となると、入札で仕事を取ろうとすればぎりぎりの金額で応札する中で、例えば平均が90%で、それを基礎金額として発注者が定めた割合を乗じて最低制限価格が決められるわけで、その乗ずる割合がどうかで大きな問題が出る。基礎となる入札の平均が90%で、乗ずる割合が95%だとすると最低制限価格は予定価格の85・5%となる。90%だとすれば81%となり、乗ずる割合がどうかで問題はさらに大きくなる。
 入札する会社がやれるという額を基本にやっているのだからいいではないかということも正しいやり方のように見えるが、工事を正しく認識する人にとっては大きな問題としてある。工事は仕入があって、それを売るというものではない。基本的には人の手で、技術と技能によってつくり上げられるものである。それだけに、せめて予定価格というものをきちっと置いた上で、どのくらいなら適切に工事を実施できるのかという考えで発注も考えないと、どこかに問題が生じる。 
変動型は安ければいいという延長にある考えではないのかと思うが、その判断は間違っているだろうか。
914号 本当にこれでいいのか
 交通誘導員の設計労務単価が7千円台や8千円台ということで積算が行われている。9千円としても、月20日間働いて18万円である。
 車を走らせていると、工事箇所で交通誘導をしている人を必ず見かけるが、丁寧におじぎをして誘導をしてくれる。夏の炎天下でも、冬の吹雪の日も、雨風の日も、一日中同じように車や歩行者の誘導をしてくれている。  
公共工事において、このように工事の安全と通行者の安全を守ってくれる人に対して、設計においてどのような賃金で考えたらいいのかということを考えたら、その答えが7〜8千円台でいいということに本当になるのだろうか。  
簡単に安ければいいと言うけれど、大量生産できて、多く生産し売ることでコストを下げられるという商品とは違うものに対して、設計段階から調査の結果 だからとの理屈で、事実だから説明がいらないということで、それを基に設計積算が行われていてもいいのかである。  
労働者は使い捨てということが、せめて公共事業においてあってはならないのではないか。きちっとした企業に、きちっとした公共施設をつくってもらいたい、仕事をやってもらいたいということがあるのであれば、というよりも多くの国民、市民はそう思っているのではないかと思うし、また、そうであってほしい。  
公共工事が大きく削減されていく中で、ある一定の量があったからこそ積算への不満や競争による単価の下落はある程度(しかたなく)容認できたが、働いてもまともに所得を得られず、仕事が取れるのか取れないのか、あるのかないのかも分からず、働く予定も立てられないとなれば、せめて、少なくとも働いている間の適正な賃金を確保できるように、適正に技術、技能の対価をもらえるように何とかすべきではないだろうか。公共事業は適正に、国民のために、市民のために大切な税金を使おうということであり、安ければいいということでは決してないということを国民から理解してもらうことが必要である。もっと業界からも適切に声を上げることが必要である。
913号 互いを理解し、運動を
建設産業界は、日本の経済性長と地域格差をなくし、豊かで平等な国民の生活を確保するために実施されてきた公共事業、さらにその公共事業によりつくり出された民需により発展してきた。その公共事業は一時期の4割に、そしてさらに来年度は15%のマイナスとなりそうだ。  
一般の人から見て建設工事とは何なのか。建設産業とはどのような産業だと思われているのか。  
住宅をつくるのも、ビルをつくるのも、道路や橋も、川の改修も、建設工事である。そして、建設産業はそういったものをつくる会社のグループということになるのだろうか。  
建設産業といってもさまざまな企業、関連産業が存在し、企業も現場で作業をする人も多くの職種がある。他にも監理する人、設計する人といろいろだ。そして、個人住宅や工場などをつくる民間工事もあれば公共事業もある。公共事業は批判の対象になぜかなってしまうが、実際に現場で仕事をし、より良いものをつくりたいという技術者や技能者は使命感の強い人、それを生きがいとしている人が多い。  
批判の対象となる理由もあるのだろうが、批判の対象が現場の頑張っている人にも及ぶようなことがあってはならないだろう。しかし、現実はどうだろうか。  
業界関係者はその現実を知っているだろうが、それを声として出しにくい。いずれの関係者も被害者であり加害者である面 があるからかもしれない。しかし、産業の大きな問題として考えると、互いの立場を考えれば、それぞれの立場を理解できないことはないと思うがどうだろう。元下関係においても、安くさせられる、安くやるからなどと、互いのことを言い合っていても解決は決してしない。  
建設産業はさまざまな立場の企業や人がいるわけで、互いを理解し合い、産業としての役割を果 たすために、産業として国民に理解されるような運動を展開していく必要があるのではないか。発注者も含めてである。それは、建設産業で働く人も国民、住民であり、社会で重要な役割を果 たしてくれているからである。
912号 積算を改めて考えるべきだ
設計積算の基準となる公共工事設計労務単価が低い、その単価で設計されているとしたら労務者を雇う末端企業の経費まできちっと見てもらわないと困るし、仕事を確保するためにだけの金額競争をしてもらっても困る。それに乗じての発注も困るという話が出てくる。それに対して発注者は市場単価や調査に基づいて積算し、経費も適正に見ているという話になる。設計価格や予定価格に近い落札だと市民が納得しないという話も出てくる。 この問題はどちらの主張も正しいというか、正しくもない。その主張の違いが一般 の人から見れば誤解をする要因でもある。  
もともと設計の基となる賃金が以前も書いたがどんどんと下がり、調査毎に違うということ事態がおかしい。落札金額によって、この工事は儲かるから賃金を上げるとか、赤字になるから下げるなどということはないし、雇用をしっかりとしていないという前提があるなら賃金もその都度違うということも考えられるが、建設業をそのような産業としてしか見ていないのかということになる。  
技術も技能もない人が、にわか技能士になれるはずもなく、新潟県と富山県での格差がなぜあるのかも不思議に思わなければいけない。同じ時間働いて、職種での違いがどこにあるのかも考えるべきかもしれない。調査の結果 、事実としてはそのとおりかもしれないが、設計の基礎となるものがその都度違っていることが本当に正しいやり方なのかを疑問として持つべきではないだろうか。所得格差を何をもって決めるのかということもあるのかもしれない。  
予定価格は適正に積算されて設定されているというのも事実であるだろうが、労務賃金を含めた予定価格とさらなる競争がある以上、入札参加者も言葉としては言わないとしても、「仕事を取って、いかに労働者や下請け協力業者にお願いをするか」という合戦になっていては、末端の労務単価は適正に上がるはずもない。公共の仕事をしてもらう以上、末端労務者の所得保障も考えてもいいのではないか。いまこそ適正を考えるべきだ。
910号 弱地域への温かい配分を
建設産業はどう変化していくのか、変化させていくのかが大きく問われている。先の衆議院議員選で国民は、政治を大きく変えてみたいという選択をした。国民がどのような変化を求めているのかは分からないが、公共工事予算の削減や計画される事業の中止、地方公共団体事業への影響など、建設業界にとってどう影響が出てくるのかを心配する声は大きい。  
いずれにしても、建設業界を取り巻く環境はさらに厳しくなると予想されている。その中で技術者や技能者を育て、産業としてどう発展するのが問われているし、社会が建設産業をどのように求めているのかがはっきりとしない。  
建設産業と一口に言っても、これも地域によって大きく違ってくる。中山間地と都市部での建設業の役割も大きく違い、それぞれで地域、地域住民との関わりも違っている。現実に建設業者がいなくなったら、地域として維持されないのではないかという地域も存在する。  
何となく言われる無駄とはなにかをどの目線で考えるのか、そして、投資効果 というものをどの目線で考えるのかを、本当に具体的に考える必要がある。  
健全な地域の発展とはなにか。農業では食えず、生まれ育った地域を働き口を求めて若者が出ていき、それでも残った年老いた夫婦が静かに生活できればいいではないかという考えも確かにあるかも知れないが、それは集落としても存続しなくなることであり、限界集落となることを意味している。以前は地すべりや土砂崩壊から地域を守るために、生活のための道路づくりなどの公共事業を行い、その事業が若者の働く場をつくり出して、地域社会が維持されてきたという地域もあるわけだが、これからそのような地域で社会資本整備をすることが本当に無駄 だということになるのかどうか。  
公共事業や建設産業について、全体として考えていくことの必要もあるのだろうが、合わせて地域地域の中で考えていくことは絶対に必要である。そして、効率的なということに対しても、地域地域の実情に見合った、弱者、弱地域に温かい配分も必要ではないだろうか。
909号 考え、判断する機会をぜひに
高速道路料金が減額されて、夏の帰省にも多くの人が安い高速道路を利用した。
その反動で新幹線などの公共交通では乗客数は減少したという。お金を払う方にとっては当然安い方がいいわけだが、その影響も考えなければならない。高速道路を走る車の量 は当然増え、パーキングエリアも渋滞しゆっくりとは休めない、下手をすると渋滞で高速道路ではなくなってしまう。高速道路としてのサービスの低下は当然覚悟しなければならない。それだけではなく、道路上の渋滞やパーキングエリアでも駐車スペースを探すために無駄 な燃料も使うということとなり、地球温暖化にも拍車をかける結果 となる。  
地球温暖化を人類の最大の課題と言われ、また、無資源国日本と言われながら、さらには環境にやさしい車の普及を進める反面 、高速道路料金を大幅に下げ、さらに無料化という対応でいいのかとの意見も多い。  
無料化ということで、さらに維持管理の問題を含め問題はないのかということだろう。高速道路の維持管理は公共工事とは違うものなのか。他に必要な公共事業への影響は出てこないのか。本当に必要な社会資本をきちっと整備していけるのかどうかである。公共事業予算全体の削減がさらに心配される中、必要な道路や歩道、河川改修、砂防事業、海岸事業、港湾事業などがさらに地域のニーズに応えられなくなるとの懸念もあり、それらはもう必要はないということなのかである。  
高速道路の無料化というと、いかにも得をしたように思える話だが、本当にそれを望むのかどうか、除雪などもこれまでどおりにやれるのか。やれたとしても、予算の影響が生活への影響として出てこないのかどうかなど、高速道路という狭い問題だけでなく、他への影響も含めて明確にしてもらわなくてはならない。  
一つの問題での答えは出てくるが、その答えがもたらすプラスと、予想されるマイナス面 を明確にし、改めてどうすべきかを国民に考える機会を与え、一緒に考えていくことが将来にとって重要だと、政権交替のこの時期だからこそ思う。
908号 「無駄な」を駆引きに使うな
公共工事が政治の駆引きに使われているようで、本当にこれでいいのだろうか。無駄 な公共事業という言葉が言われ続け、自分の生活に直接関係のない公共事業はみんな無駄 なように何となく国民は思ってしまっているようだが、そんな中で必要な公共事業はやるが、財源の確保のために無駄 な公共事業は減らせと、何となく分かったような言葉で言われている。  
無駄な公共事業という言葉が使われて久しい。何年経ってもまだ言われ続けているが、今も無駄 な公共事業がやられているということなのかということだ。  
具体的なことではなく、漠然とした使われ方で、何となく国民もそれで納得しているところに問題がある。過去のこの事業は無駄 だという話をしていても始まらない。確かに過去において、計画していた時代と完成した時代の大きな変化から、投資が無駄 となったという事実もあるだろう。画一した規格によりつくられて、こんなに広い道路が必要?というものも確かにあった。  
そういった批判を受けて社会資本整備の在り方も変化してきているはずなのに、まだ「無駄 な公共事業」という言葉が使われ続けているのはどうだろうか。  無駄というならば、それは各論であって、総論になって語られてしまうものではないはずである。本当に無駄 だというものがあるならば、具体的にテーブルに上げて話をすればいいはずなのに、漠然とした中で「そうだ、そうだ」ということになってはいないだろうか。  
無駄なものはいらない。当然のことであるが、それが政治の道具に使われて、必要なものまでも「いらない」、「予算を削れ」ということになったとしたら将来に禍根を残すことになるのではと心配する。  
事業をやるやらない、予算をつけるつけないという問題だけではなく、地域産業と経済の問題にもつながることだけに、「無駄 なもの」という何となく聞こえの良い言葉を多く使うことだけは、ぜひやめてもらいたいものである。必要なものは必要であり、それは逆に、もっと前向きに声を上げていくことが必要だろう。
907号 冷静な目で、冷静に判断を
衆議院選挙が8月30日に予定されている。国民が選択する結果 がどうなるのかはわからないが、政策はやはり現在と未来を見つめて決めていってほしいものである。国民はうわべだけではなく、その先にあるものも見つめて国民としての本当の世論をつくり出していくべきだ。  
世論とは何かを考えると、世論とは社会を構成する人々の総括的な意見ということになるのだろうけれど、それはある意味、つくり出されてきたものでもある。さまざまな意見があり、置かれている立場や経験、知識によっても考え、意見は違ってくるわけで、力も影響している。  
同じ話でも、別々の方向性を持って話をしていくと、どちらも納得するような話になっていくから不思議だ。どちらの話も聞いたばかりの時は「そうだそうだ」と思えても、冷静に受け止めて、冷静に自問自答を繰り返していくうちに自らの考えにたどりつく。その考えも、同じ人でも経験と知識の深さによって異なってくるため、20代、30代、40代でその答えも違ってくるのは当然かもしれない。  
公共事業バッシングや入札に対する誤解がなぜ起きるのかを考えると、やはり談合問題や無駄 な公共事業という報道が大きく起因している。問題も多くあったことも事実だろうが、日本の高度成長を支え、国民の安全と生活を守り、支えてきた建設業や公共事業を悪のように、本当に世論として言われているのだろうか。  
公共事業を、建設業を否定している人は本来は少ないはずだと思う。無駄 というのも、自分の生活に関係しなければ、その人にとっては無駄 というより関心のないことになってしまい、無駄と言えば無駄 ということになる。また、時間の流れの中でも、無駄かどうかの認識が違ってくるのは当然ではないだろうか。  
必要な公共事業はやる必要があるという言葉もよく聞かれるが、必要な部分というものも認識に共通 性がない。これも一人一人で必要性は違ってくる。今からでも地域を見て、世界を見て、冷静に世の中を見て、公共事業・社会資本というものを見つめ、建設産業というものを冷静に見つめてもらわなくてはいけない。
906号 行政としての役割を考えれば
「事前公表がなぜ悪い」「最低制限価格はなぜ設定し、なぜそれを引き上げなければならない」  そんな声を聞くと建設産業関係者は、なぜ理解をしてもらえないのかと思うところ。  
北陸ブロック発注者協議会では平成21年度の取り組みとして▼総合評価の導入・拡大▼低入札価格調査基準価格、最低制限価格の見直し▼予定価格の事後公表への移行▼地域貢献に関する評価の普及促進▼取り組みに関する公表…を決めた。  
公共工事の大幅な減少が続き、反面建設業者数は大きくは減っていない。建設業は工事を受注し、技術・技能を駆使して構造物や成果 品を作り上げて利益を得る。基本は受注しなければめしの種もないということだ。よって、受注競争を繰り返してきたことで建設産業が深刻な状況を招いていることが前記の決議にもつながっている。そして、それだけではなく、価格競争により極端に低い価格での落札も相次ぎ、品質に大きな問題が生じるおそれが出てきたことである。  
受注した以上、赤字でも品質の良いものをつくりなさいということは簡単だが、設計どおりのものが間違いなくつくられているのかということは、言葉ほど簡単なものではない。  
例えば品質の良いものがつくられたとしても、しわ寄せがどんどんと下請に、さらには現場労働者にいく。その結果 が労務単価の下落につながっている。  
このままでは優秀な技術者、技能者が育たない。当然余裕がなくなれば技術開発などへの投資も押さえられる。すなわち、将来の建設産業に赤信号がともるということだ。そうなれば1産業だけの問題ではない。公共事業にも大きな影響が懸念されることになる。地方経済や雇用にも大きな影響が出てくるということである。そういった危機感に国土交通 省を中心とした公共事業発注関係者が認識してきたということだろう。  
まだまだ理解されていない面はあるようだが、安く発注し、税金を使わないようにすることが行政の役割ではなく、地域を元気にすることではないのだろうか。
905号 先見の明で考えるべきことは
新潟県の将来を考えた時に何を重点に考え、進めていくべきか。豊かな新潟県が人口の減少問題、高齢社会問題を抱え、若者が離れていく現状を打開していくめに学ぶ場や働く場、所得を得る場などが必要だと言われているが、そういったことも合わせて広い視野での取り組みが将来にとって非常に重要であり、港と日本海にも、もっと目を向けるべきである。  
昨年秋以降、世界的な経済危機が叫ばれて、県内企業にも大きな打撃を与え、雇用問題が深刻な状況が続いている。新潟県が安定的に発展をしていくためには、新潟県を囲む地域が、どう変わり、動いていくのかを想像し、その変化を先導するために何をすべきなのか、新潟県の役割を自らが認識し、ハード、ソフト両面 からの積極的な取り組みが必要だ。  
日本にとっては、一番近いアジアの国々との関係が将来にわたってさらに近い存在となっていくことは間違いないのではないか。そういった中での新潟県の役割は非常に重要となる。  情報や通信を除く環境問題や食料問題、エネルギー問題など、これまでのグローバルな関係から、これまでとは違う価値観による地球的な地域関係が重要視されてくるのではないかと思う。近い関係の中でもっと物流や人流が活発になっていくことが必要であり、環境とエネルギー問題にやさしい、既存のものを活用した、効率的な物流の在り方も重要視されていくのではないだろうか。  新潟県の港はかつては大陸への玄関であり、その再来の可能性は高い。その動きは現実にある。今は港の利用が伸びることが整備への条件となるが、将来を見つめたふところの深さをつくれるかどうかが新潟県の将来に、魅力に大きくかかわっていくのではないかと思う。  
合わせて、県内に暮らす人にとって、企業にとって、さらに魅力的な新潟県となるための社会資本整備は重要であり、世界的な食料危機への対応に向けて、食料供給県としての重要な役割を担っている県としての役割を果 たすためにも今やっていくべきこと、考えていくべきことは多い。
904号 基準が下がるという不可思議
新潟建専連が北陸地方整備局に対して要望を行った。ゼネコンによる受注競争と、発注者のできるだけ良いものを安くやってもらいたいということで、下請である専門工事会社の受注金額は厳しい状況が続き、設計積算の基となる労務単価等は下がりに下がり、若者も見向きもしないような年間所得となった現状を何とか理解してもらい、基となる設計積算だけは適正なものとしてきちっと積算をしてほしい。
さらに、1次下請に対するセーフティネットだけでなく、その下で仕事をする、すなわち末端の技能者に対しての賃金等が、不測の事態となってもきちっと支払われるようにしてほしいというもの。あわせて、元下関係の中で、業法がしっかりと守られているかなどを、発注者としてきちっと確認し、指導を徹底してほしいということである。  
一番の問題は設計積算の問題で、その基準がいまのままでいいのかということだろう。市場調査の結果 と言えば多くの人が納得する話ではあるが、現実の市場が、社会的責任を果 たしていく産業としての適正な競争と価格となっているのかである。  健全な発展とは何か、適正な発注と受注とは何か、適正な賃金とは何かの中で、基準となる価格が大きく変動していくはずはない。しかし、現実は基準がどんどんと下がり、さらに競争という現実があり、それを基に下請への発注があり、調査が行われて基準がつくられる。  
経済成長の目標があるように、それに合わせて所得も物価も上がってきたはずなのに、基準となる価格がなぜ下がるのかを不可思議なこととして考えるべきである。逆に言えば前が高すぎたということになるが、本当にそうなのかである。  
入札契約の適正化に向けての対策や、建設産業の経営の健全化に向けたさまざまな対策が行われているが、最終的には建設現場に働く末端の技能者が将来に希望を持てる産業となることである。  公共事業の目的は何か、安いものをつくることに目的があるのだろうか。経済問題や雇用問題も含めて、考えるべきことは非常に多いし、考えていくべきだ。
903号 改めてプルサーマルとは何かを

 柏崎刈羽原子力発電所は新潟県中越沖地震以降停止し、そのうちの7号機は5月9日に原子炉を起動、5月19日に発電を開始して、約1年10ヵ月ぶりに送電も行い、原子炉や発電機などの機器、配管等が健全であるかを確認している。さらに1〜6号機についても原子炉の起動と発電再開に向けた取組みが順次進められている。  
柏崎刈羽原子力発電所は全号機の運転再開に向けた取り組みが話題の焦点となっているが、全国を見るとMOX燃料 (ウラン・プルトニウム混合酸化物)の軽水炉での利用が話題としてある。中国、四国、九州電力でのプルサーマル計画で使用されるMOX燃料がフランスから運ばれ、5月18日から順次各港から陸上げされた。  
エネルギーの安定供給は、エネルギー資源の乏しい日本にとっては重要な問題であり、環境問題も関連する問題だけに原子力発電所の問題を含めたプルサーマル問題も改めてその内容について勉強する必要があるだろう。  
新潟県内でも以前、プルサーマルに関する説明会や勉強会も行われた経緯がある。さまざまな問題の発覚もあってプルサーマルという言葉さえも聞くことがなくなったが、将来のエネルギーを支える重要なものであることは間違いないだろう。「危険だ、絶対に反対」という人も必ずいるわけだが、果 たしてどうなのかを、その中身を知って判断をする県民、国民になる必要がある。  
柏崎刈羽原子力発電所でのプルサーマル問題はまだまだ議論する時期ではないが、将来の日本を考える中で、発電所の問題とは別 に、広く議論をしていく場がそろそろ必要になっているのではないかと思う。  
人類は、もはや科学技術を利用していくしかないまでになってしまった。もはや戻れないその現実の中で、「危ないものはない方がいい」で済ませられないくらい世界は大きなうねりを上げて動いている。個人的な判断も大事だが、グローバル的に、将来を見据えた判断もしていかなければ責任は果 たせない。

 

902号(5/22付) 適正な公共工事の執行に期待

品確議連(自民党・公共工事品質確保に関する議員連盟)は、公共工事発注機関に対しての、地域の暮らしと雇用を支えるため、経済危機対策の発動に当っての緊急アピール案を5月13日にまとめた。  
これは、世界同時大不況を乗り越えるための内需拡大を目指した過去最大規模の経済危機対策が国会で審議中で、公共事業費も実質3割以上を目指して、その裏付けとして、地方負担分の9割以上を支援する地域活性化・公共投資臨時交付金の約1・4兆円をはじめとした対策も計上されている。そういった対策が活かされることが重要であることから、自民党として公共発注機関に対して取り組みを図られるようにアピールする。  
そのアピール内容(案)は9つで、(1)過去最大の前倒し執行を。(2)最近10年間での設計労務賃金が約3割減となっていることから、建設産業労働者の雇用と所得の確保のため、実態を踏まえ、出来るだけの配慮と適正な支払いのチェックを。(3)地方の建設産業は赤字の厳しい経営環境であることから、技術と経営に優れた企業が生き残れるよう再生を。(4)最低制限価格・低入札価格調査基準価格制度について、公共工事の品質確保の観点に加え、発注者の判断により、地域経済を守り地域の雇用を維持する観点から落札価格の引き上げを。その目安は、地域の建設産業としての継続的な経営を可能にする価格水準(少なくとも予定価格の90%)を確実に担保を。(5)地域や工事の特性に応じた参加条件(地域要件等)を事前に明示して付すべき。(6)品確法を遵守し、総合評価方式の採用の徹底と改善を。(7)積算価格の適正化を。(8)設計変更費用の適正な支払いを。(9)支払い等の資金繰りの円滑化、前払い、部分払いの活用や予定価格の事後公表など、公共工事の品質確保を図り、優良な建設産業を再生する上で必要な改善を。  
これら緊急アピールを党内で決め、新潟県出身の佐藤信秋議員は県内地方自治体に対して要請をしていきたいとしている。これら動きが公共工事の適正な執行につながることを期待したい。そして、建設産業も真摯に取組む必要がある。

 

901号(5/13付) 緊急的な発注方式で活力を

経済の再生、雇用の創出が現代の課題であり重要なテーマとなっている。
世界を見つめ、国内を見つめた、さらに現代と未来を見つめた政策が求められるところ。合わせて環境問題や食料問題にも取り組む必要がある。  
世界がグローバル化し、日本の技術が輸出産業を大きく育て、日本の経済を力強く支えたことは事実だが、反面 、昨年の世界同時不況による影響も、まるで世の中が変わってしまったかのように影響を受けている。そして、内需拡大の必要性が強く叫ばれたが、財政再建の名の下に公共事業が大きく削られてきたことでの影響が、いざやろうという時にいろいろな面 で足を引っ張ってしまっている。  
内需拡大は、内需を創出し、雇用を生み、企業が事業を行う上でさらに需要をつくり、儲けを出してさらにそのお金を使い、個人消費もさらに増やしていくことに意味がある。それが税収にも反映する。  
無駄を省けという言葉はその通りではあるが、無駄なお金は使うな、安ければ安いほどいいということで、きちっと積算された公共事業を、「これでやってくれ」とも言わんばかりの最低制限価格の事前公表をすることが内需の拡大につながるのかである。  
内需拡大をやり、雇用をつくり、活性化させるためには、きちっと設計積算された適正な金額で発注をすることが必要だ。場合によっては、緊急的な措置として、実績に応じた順番での選定発注をやり、貴重な税金を世の中に回して活力を出すくらいの思い切った措置が必要ではないだろうか。  
批判の対象になることは承知しての提言だが、儲けの出ない需要をどんなにつくり出しても、活力は生まれないし、個人消費も増えていかないのではないかと思うからである。  
でなければ、暗に最低制限価格で受注してほしいという入札の在り方についてきちっとその是非を議論して、積算の意味、競争入札の意味、最低制限価格の意味について住民に示していくべきではないだろうか

 

900号(4/25付) 真の目的のために何をするか
 Made in新潟新技術普及・活用制度の活用制度に36技術が登録されている(3月10日現在)が、その評価がその後の工事にどう生かされて、活用し、普及をさせようとしているのかが今ひとつ見えてこないという言葉が聞こえる。県土木部技術管理課では新技術に対する認識を深め、積極的に使われることを目的にPRに努めているし、昨年12月には朱鷺メッセで展示・発表会も開催している。  しかし、何かが違っているという言葉が登録者からは聞こえてくる。新潟県の新しい技術を積極的に使い、その良さを県内外に発信し、普及させ、それら技術が新潟県のためにお金を稼ぐ技術となるように育てようというのがそもそもの目的であったはずだと思うが、新潟県の工事でもなかなか使ってもらえないという技術も多い。  Made in新潟新技術は、新潟県土木部推薦の技術と思えるが、標準歩掛かりがないと設計に最初から取り入れることは困難である。標準となっているものと、そうでないものとの差は設計者にとっても大きい。活用制度に登録された技術を一度だけの評価で、「さあ使え」 「採用しろ」ということで、本当に新潟県から発信する「すばらしい技術ですから全国的に使ってください」ということになるのかどうかである。  工事現場は一品生産、工事ごとに条件は違ってくる。だからこそ「いろいろな現場の条件での評価があってこそ、信頼もされることになる」「推奨するなら、せめて準歩掛かりくらいつくり、簡単に使えるようにすべきでは」という言葉が聞こえてきても当然かもしれない。  Made in新潟新技術の制度がつくられて3年、登録技術は100を超えているが、真の目的を達成させるためには、ここでさらに思い切った取り組みと発想が必要になるのではと思える。  それぞれの立場での問題点は当然ある。しかし、立場が違えば不満も当然出てくる。その不満を言い合っていても、不満に反論する言葉だけを探していても問題は解決はしない。前向きな議論と、時には政治的判断も必要になるだろう。


 
 

Copyright (c) 2005 KENSETSU JOURNAL. All Rights Reserved.