建設ジャーナル
建設ジャーナル
 会社概要
 会社理念
 お問い合わせ
▲トップ 
コラム   代表取締役編集局長 小林 正
back number
コラム欄「苦楽と一緒に生きてきて」の筆者小林正がペンを持つことが出来ない状態となったため、このコラム欄はしばらくお休みさせていただきます。
vol.33
業界余話(20)子田事務局長  

子田さんが新潟県の初代建設業係長の時代、やった仕事の一つに建設省を感嘆させた事業があった。
新潟県の建設業者のランク制度の創設である。
建設省から新潟県土木部に「新潟県の建設業者のランク制度はすばらしい。これを建設省で使わせてもらいたい」という申し入れあった。
「どうぞ」ということで建設省が新潟県のランク制度を基に国の建設業のランク制度を作った。  
そんな話を子田さんは自分からしたことはなかった。
たまたま私が「新潟県建設業協会史」執筆の依頼を受けて、いろんなことを取材する中で子田さんから話を聞いた。
この話を聞いた時、「この人は」と感嘆して子田さんの顔を見ていた覚えがある。  
私は近頃、子田さんのことをいっぱい知っていると思っていたが、実は子田さんのことは何も知っていないのではないかなと思うようになった。
あらためて子田重次さんという人を考え直してみたいと思うようになった。
新潟良寛会が編纂した子田さんの追悼集「花ありて」を机上に置いて読み始めている。  

……短歌一首をとってみても子田さんの心が、今再読すると深く感じられる気がする。
 
子田さんを口説き落として新潟県建設業協会の事務局長に据えた吉田吉平会長をさすがと思っている。
vol.32
業界余話(19)子田事務局長  

子田さんが県の初代建設業係長に抜擢されたことで、いろんな仕事が展開したが、そのことは後で触れる。
新潟県建設業協会長が、子田さんを事務局長に迎えて協会の近代化を図ろうと考えて動き出した。

当時の協会長は県議で吉田組社長の吉田吉平さんだった。
協会発足時の会長吉田平吉は父親である。
親子で県建設業協会長というのは全国で初の例だった。  
県議の中でも当時ピカイチと言われた実力者の吉田さんが子田さんに惚れて強引に協会入りを口説きにかかった。
子田さんの断わり文句は次のようなことだった。「オレは今のポストにいるからオメサン達に威張っていられる。協会の事務局長になったらオメサン達に仕えることになる。威張ってなんかいられない。駄 目だね」。
吉田会長が通い通した最後に言った。「人間が威張る条件の一つはお金だ。給料の1ヶ月分を別 に支給するから、その金使って威張っていたらいい」。  
なんとも奇妙な提案だったが、子田さんは「何はともあれ、吉田さんほどの人が日参とまでは言わんけど一係長のオレのところへ何としても来て協会の運営に力を貸してくれと言う。この辺で県土木部の中での自分に見切りをつけることが大事なことかもと考えたね」と。  
新潟県土木部建設業係長の立場で建設省を驚かす仕事をやっていた子田さんだったがついに協会入りを決心するに至った。
vol.31

業界余話(18)子田事務局長  

子田さんが十日町土木事務所の総務課長時代に、「出張用に馬買ってくれませんかって頼んだけど、だめだった」という話がある。
今考えれば珍談としか言いようがないが、戦時中軍人として大陸を駆け巡った人達にすれば、馬は身近な生き物だったのだろう。
十日町は当時交通の便の良くない辺地だったのだろう。
それにしても時代の変化を感じさせる話だし、子田さんでなければ考えつかない逸話だと思う。  
子田さんは野球が大好きで新しい職員を採用する時に、君は野球が好きかと聞いて採用したという話が伝わっている。
また、赴任した土地を愛したことでも知られている。
三条土木事務所で子田さんの下で働いた人達の思いで話を聞くのは楽しかったが、その人達ももういない。  
とにかく部下の人達には心から慕われた人だった。
その上有能だった。県の土木部に建設業係が出来たとき、初代の建設業係長に抜擢された。

vol.30
業界余話(17)子田事務局長  

子田さんは糸魚川の生まれ。
10代で相馬御風の門に学び、良寛を日本の風土に息づかせた御風の歩みを慕い、
良寛を心から愛する子田さんとなった。
或る時「相馬御風、どんな方でした」とたずねたら、「おっかねえ人だった」と。
その言葉に子田さんがいかに深く敬愛していたかが察しられる思いがこもっている。
「御風の書と歌」という小冊子に「面影はすでに遠いが、その人間や研究の真価は
百数十冊に及ぶ著書や遺墨を中心に年月と共に静かにしかもいよいよ深く輝きを増しつつある」
と記して御風を偲んでいる。  子田さんは新潟県の糸魚川土木事務所に勤めた。
建設業界との関わりがここから始まる。26歳で早くも総務課長。
この時代に子田さんの面目躍如たる事件が起こった。具合の悪いことは部下のせい、
良いことは自分の手柄という所長がいた。
ある夜、その人が飲んでいる料理屋へ行ってその人を呼び出し、
「悪いが我慢ならん、殴らせてくれ」と言ってぶん殴った。
そして糸魚川土木事務所へ辞表を出した。 当然県の土木部は騒然となった。
なんとか事態を収めようとするが、「辞表を出したんだからそれ迄だ」と子田さんは引かない。
知恵者がいて、君一人じゃない、○○君と一緒に高田土木事務所へ転勤なら出した辞表は引っ込めてもいいんじゃないかという案を出して、結局は○○君が当時の子田さんの親友だったことが効を奏して、子田さんの転勤が実現して一件落着した。
その後十日町土木事務所、三条土木事務所、長岡土木事務所などに勤務する。
vol.29
業界余話(16)子田事務局長  

酒は夜外で飲んだが晩酌はしなかった。
だから1ヶ月の拘留期間酒が飲めなくてもかまわなかったが、
煙草はヘビースモーカーで「塀の中では煙草が吸えなくて切なかったでしょう」
と後日言ったら、「それがさ」という話になった。
子田さん取り調べだよと言われて「?」と思っていると、取調室で煙草を吸わせてくれた。
とにかく多くの人に好かれた人だったが獄中?でももてた。
一件落着後普通の生活に戻って多忙な子田さんの所に看守が訪ねてきて、
「お願いがあります」という。
子供かどうか忘れたが就職についての相談だったという。  
退屈だったでしょうという問いかけには、「歌謡ショーやってたね」。
好きな歌手の例えば村田英雄などのショーを空想の中で構成し司会して、
歌詞を見ないで歌える250曲を展開させていた。高倉健の「網走番外地」のメロディで
拘留中の自分の思いを詞にして「新潟番外地」を作って、夜の帝王の生活に戻ってから
流しに弾かせ歌っていた。
子田さんが個性的だったことは間違いないが、
世の中がそうした個性的な人の存在を許した時代だったのかもしれない。 
vol.28

業界余話(15 )

子田事務局長は歌が好きでうまかった。
当時夜の巷には流しが一杯いた。子田事務局長は流しを呼んで伴奏させて歌っていた。
流しの伴奏で歌うのだから当然演歌である。  
どんな歌でも、歌詞を見て歌うことはない。
子田事務局長に声かけられて夜の巷へお供していった人が歌詞カードを見て歌うと、
「ムードのないことすんなね」と言われた。  
彼が歌詞を見ずに歌える歌は「250曲」と言っていた。
水上温泉で建設業界関係の会議があって出かけた時、帰りの車に同乗していた
水倉組の社長水倉勝(故人)がその話を聞いてホントかねと言ったら、
これから歌って聞かせてやるわねと言って歌い続け「わかったー」ということになったという。
「ほとんど新潟まで歌ってたね」と子田事務局長。  
人を楽しませる遊びだったし歌もうまかったし金の使いぷりもあざやかだったので、
「子田さんは新潟の夜の帝王」と言われて、男にも女にももてた。
その子田事務局長が昭和40年7月10日、参議院議員の全国区の選挙で文書違反で逮捕された。
新潟県建設業協会からは曽我五郎専務理事と二人が検挙された。
「曽我さんと子田さんが逮捕されたって!」という話が夜の新潟を駆け巡った。
長い拘留期間の間に、子田事務局長の人間味ある話が「塀の中」に展開していった。  

 
vol.27

業界余話(14 )

昭和43年12月9日の新潟県建設会館の竣工記念式の日のことを前回書いたが、
この日一つだけ嫌な記憶がある。
竣工記念式が終わって懇親会に移る時か懇親会の途中だったか、司会の子田事務局長が、
県議会議長が退席することを出席の人達に伝えた。
議長がいないと県議会が開けないから、このままお残りいただきたいがお送りしたいと
いうことを話した時に、
「子田君、無礼だぞ!議長だけで議会が開けるものじゃない。 我々もこれから帰るが!」と
怒声を張り上げた人がいた。
そんなことは言われなくても分ると思って唖然としてその人達を見ていた。
怒声を発した人は一人だったが、「そうだそうだ」と同調した「人達」がいて、
その人達を見ていたということになった。  
ずっと忘れていたことだが、なんで今そのことを思い出したか。
その騒音?でお祝いの場の空気がおかしくなることは無くお祝いが続いて行ったのは、
その人達がその場にいた人達に黙殺されていたということだったろう。
その怒声を発した人も、同調した人達も、もう、とうに亡くなっている。
あとで「あの時は」と悔いていたのではと思うのだが。

vol.26
業界余話(13 )

新潟県建設会館が竣工してオープンしたのが昭和43年12月。
9日に新築成った会館で竣工記念式典が開催された。
当日は県下各地から協会の会員業者が集まった。1階のエレベーターで次々と
会場の7階大会議室へ上がって行った。

そのエレベーターの中で、忘れられない声が上がった。
「福田さんと同じエレベーターに乗っている!」。
すし詰めのエレベーターの中で、誰の声かはわからなかったが、おそらく地方から
出てきた会員業者だったのだろう。
その人は帰ってからも「今日福田さんと同じエレベーターに乗ったぞ」と感慨深く
語っていたことだろう。

当時の福田正さんは最も体格のがっしりしていた頃で、その福田さんからにじむ貫禄が際立っていた。
竣工記念式典は子田事務局長の司会で展開した。
本間石太郎会長の挨拶も自分の決断で出来た会館だけに感慨深いものが感じられた。
長々と続く祝辞の中で、新潟商工会議所会頭の和田閑吉さんが、
一言だけ、「新潟県建設会館竣工おめでとう!」と言った祝辞が印象的だった。
その日は夜遅く迄2次会3次会の流れが続いていった。

その中のあるサロンで、本間茂さんに声をかけられた。
席を立って私に譲りながら、「ご苦労様でした」。
本間石太郎さんに本間組の社長室で紹介される以前に、出会いの場があったのだった。
思い出の一杯こもった夜だった。  
この時の日本一と言われた新潟県建設会館は今はない。
vol.25
業界余話(12 )

新潟県建設業協会長本間石太郎、事務局長の子田重次の名会長ぶり、名事務局長ぶりについては
いろいろ紹介してきたが、この両氏と田中角栄氏のまじわりについても面 白い話がある。
本間さん、子田さんがお元気だった頃にそれぞれの立場から見た一代の英傑田中角栄さんについての
話を聞いておきたかったと残念な思いを強くしている。  

協会の首脳陣が上京して一夜田中角栄氏と一緒になった時、田中氏が本間会長初め出席者全員に
一枚づつ色紙を揮毫してプレゼントした。
あとで本間会長が子田事務局長に言った。
「子田君、君の色紙だけ角さん子田老へと書いていたな」
「老って会長わかりますか。老人ていう意味じゃないんですよ、敬って老と書くんです」
「それくらいのことは知ってるさ、だけどお前さんだけ老ってのはな」。
本間会長残念そうだった。
その本間会長が倒れて新潟大学付属病院に入院した時、
「自民党幹事長田中角栄」が新潟市長選挙の応援に新潟入りして、新潟空港からサイレン鳴らして
走る先導車と共に新潟大学付属病院へまず駆けつけ、慰問したという。

田中幹事長と本間石太郎のその時の写真は本間家に今もあると思う。  
vol.24
業界余話(11 )

新潟県は第2次世界大戦で空襲を受けたのは長岡市だけだったが、長い戦時下で県土の荒廃はかなりなものだった。  
その荒廃ぶりは乗り込んできた進駐軍の目にはこれは何だと思うような状況となっていた。
ジープを日常の仕事の中で必需品としていた彼等にとって、これが道路かという実情だった。  
例えば新潟―新発田間の道路が、車で2時間かかるという状況だった。
米軍政部のコックス部長が、県土木部長五十嵐真作を呼びつけて、 「アレハ道路ジャナイジャナイカ、時速60キロデ走レル道路ニシロ」と。
五十嵐部長は「よろしい1週間以内にやりましょう」と答えたが、これには成算があった。
全国で第2号のグレーダーを買い入れたばかりだった。
新潟県の道路行政の興廃を決するという決意で取り掛かり、6日間で時速60キロの道路を通 した。
試走していると向こうからコックスがジープを走らせてきた。
心配して様子を見にきたのだが、バッタリ出くわすと「君の努力に感謝する」と握手した。
後年、五十嵐は思い出としてしみじみとその時の事を語っていた。  
vol.23
業界余話(10 )

本間石太郎はそうした日々の努力を重ねながら、建設工事は新潟鉄工にしかないと言われた
新潟鉄工所で仕事をして力を貯えて行った。
世間には知られない努力の日々だった。  
昭和20年8月15日終戦の日を迎えた。
新潟県で唯一の空襲被災地の長岡市に、復興の目が向けられた。
全市の8割、11,986戸を焼失、戦災死者1,143人という悲惨な長岡市の復興に県下の業者が集まった。  
長岡市役所の焼け跡に大きな「本間組」の看板が立った。
当時の植木組の社長植木豊太があれはどこの業者ですかと、隣にいた人に聞いて、
「戦争中に急激に力をつけてきた新潟の業者だそうですよ」と言われ、
「初めて本間組を知りましたよ」と後日一つの思い出話として語っていた。
vol.22
業界余話(9 )  

昭和十七年の企業整備令は建設業のためだけに発令されたものではなく、
あらゆる分野で統合整理が行われた。例えば金融機関も統合され、県下では
第四銀行と北越銀行だけの体制となった。新聞もそうで全県下の新聞が1つ
に統合されて新潟日報一紙だけとなった。
終戦となって「企業整備令が自然消滅すると、待ってましたとばかり大小の
建設会社が独立の形を取り戻して、自由競争の中で大きく歩みを伸ばしていった。
その中で本間石太郎さんの歩みが人目をひいた」という話を聞いた。  
本間組は整備令の中で企業合同の形をとり、新潟土建鰍フ一員となった。
本間石太郎は新潟土建の常務だったが、その方は後に本間組専務として活躍した
渋井次郎に任せ、自分は新潟鉄工所の建設関係の仕事に没頭した。
「新潟鉄工は空襲で太平洋岸の軍需工場がほとんど壊滅状況にあった中で、
唯一盛んな軍需工場として活躍していた。当然建設関係の仕事もたくさん抱えていた。
本間さんはその中で地歩を固めて行った」  新潟鉄工の人達も、生活物資の窮迫は
当たり前だった。
本間石太郎は酒や米などを自分なりのルートで調達して贈り、
本間さん々々と重宝がられ、感謝された。
vol.21
業界余話(8)

今建設業界は公共事業の減少による受注減で苦労している。  
だが、かつて建設工事が特例を除いてはほとんどなくなった時代があった。
太平洋戦争のためである。工事は戦争激化のためなくなる一方だったし、一方では召集令状で多くの男達が兵隊さんとなって戦地に送られ、人手がなくなってもいた。  
これではどうにもならないということで、昭和17年に企業整備令が発令され、業界の整理統合が行われた。  
建設業界は昭和15・16・17年の3ヵ年の工事実績の平均が年額50万円以上の業績を有する業者だけが単独で営業できるというものだった。
その基準以下の業者は有志を結合して企業体を作り、それ以外の業者は職種別 組合に加入することに決められた。新潟県では土木工事が主体の業者は新潟県鳶土工組合へ、建築工事が主体の業者は新潟県大工組合へ加入した。  単独で残れた業者は加賀田組、吉田組、福田組、水倉組、新鉄工業、植木組、高瀬組、飯塚組、白沢組、村祐組。
企業合同して出来上がった企業体は、新潟土建梶A北越土建梶A鞄東組、岩船土木建築梶A中東土建工業梶A大和土建工業梶A長岡土建工業梶A蒲原土木建築梶A三條土建工業鞄凾ナ、本県の単独及び企業合同の業者数は29社に整理された。(この項は新潟県建設業協会史を参照)
vol.20
業界余話(7)

新潟県土木建築請負業組合の初代理事長は加賀田勘一郎(初代)。
加賀田組は明治28年5月の創業で、当時の県下建設業界の老舗でありトップでもあった。
福田組の創業は明治35年、植木組の創業は明治18年とそれぞれ古い歴史を持っている。
現在の時点で創業100年以上の会社は、福田組、加賀田組、植木組のほか主だったところは
小野組(中条)、横井組(朝日村)、富樫組(村上)、高健組(新潟)、中元組(寺泊)、
近藤組(相川)、中野建設工業(小木)、笹原建設(見附)などで、全部で22社を数える。
一番古いのが大阪で創業、後に寺泊へ移ってきた中元組で、創業100年祭をやった時、寺泊町
あげてのお祝いの観を呈した。
以上の中できりのいい所で線引きすると横井組、富樫組が来年100周年、小野組が120周年を迎える。  
福田組、加賀田組とで「御三家」と呼ばれる時代を持つ本間組の創業は昭和9年である。
vol.19
業界余話(6)

新潟県土木部の初代監理課長西芳雄が昭和7年に内務省土木部から新潟県へ赴任してきた時、
新潟県の業界では談合が行なわれていたと言っていたことを前回書いたが、
その頃の業界で今では考えられない状況が一つあった。  
それは建設業者でも呼び出し電話で仕事をしていたところがかなりあったということだ。
呼び出し電話というのは、電話を持たない業者が、電話を持っている家に頼んで、
用がある時その家に電話してもらって、何々組の社長を呼んで下さいと頼んで連絡をとった。
そのために役所への登録に「呼び出し電話××番」と明記しておいた。
昭和14年頃に西芳雄が当時の建設業界のことを書いた文章を残しているが、
その中に当時の業界の「呼び出し電話」のことが書かれていた。
探して再読したら楽しかろうと思うことがある。  
新潟県建設業協会が現在の社団法人新潟県建設業協会になったのは昭和25年5月。
それ以前のルーツをたどると昭和11年に新潟県土木建築請負業組合の設立が出てくる。
その組合員は181名。あくる年新潟県知事関屋延之助から組合の許可がおりている。
vol.18
業界余話(5)

新潟県庁に土木部が出来たのは、昭和8年9月22日だ。
それまでは土木課長が土木行政の主役だった。
大正の末から川上国三郎が長い間土木課長を勤めた。
飄々とした一面があって川上仙人などと呼ばれたりした。
川上課長の下に土木派遣所があった。
土木派遣所の一番古い頃の名称は工営派遣所で、例えば新潟県第五区工営派遣所があった。
第五区は小千谷のことで、三魚沼と古志郡が所管区域だった。
工営派遣所には、地区名は冠してなかった。
この工営派遣所が歴史の流れを経て後に土木事務所の時代が長く続いた。
現在の地域振興局の地域整備部にその流れが続いている。  
土木部に監理課が出来たのは、土木部が出来た前年の昭和7年。
初代監理課長は内務省土木部から西芳雄が赴任した。
監理課が出来、土木部が出来たということで、
県の土木行政が指導性を帯びてきて、業界の近代化が考えられた。
しかし政党色の強い時代、業界の近代化は実質的にはまだ遠い夢だった。
西芳雄は来県時の建設業界の状況を、
「談合が非常に行われていた。 談合金を高く出しても仕事を取ろうとする気味があった」と語っている。
vol.17

業界余話(4)

水力発電と苦闘した本間組の話に戻ろう。  
本間石太郎社長の日頃の生き方がまずものを言った。県や銀行などが、
「本間を何とかしてやらなければ」という気になって、応援体制を取ってくれた。
資材納入業者なども支払いを待ってくれた。これらのことは本間組の社員達に力を与えた。
「あの当時、わかった、頑張ってくれと言ってくれた人達に本当に感謝した。
中には当然そうでない人達もいた。
そうした人達には会社が立ち直ったあと、やはり私達の対応も違った」と、当時の苦しさを体験した人達は後日語っている。  
本間石太郎は、毎日の一つ一つの仕事が会社の再建につながるということを念頭に置いて、あらゆることを自分に報告させて処理していった。  
厳しい経営の中で給料の遅配はやむを得ない現象となった。
そうした難儀さの中で、300人を超す社員達も頑張った。「一人も会社を辞めるという人間がいなかった」ということが思い出として語られる。  
だんだん本間組は復活の歩みに乗っていった。
そして昭和30年代の終わり近くにきて、これでなんとかなるぞという状況に来た時、昭和39年6月16日、新潟地震が起きた。
この復旧事業の活気の中へ、本間組の完全復興の歩みが踏み出していった。

vol.16

業界余話(3)

電源開発事業と取り組んで苦闘している本間組のことを書いていたが、

営業停止の期間に入ったので、本間組をはずした話にふれてみよう。  

7月16日午前10時13分、新潟県中越沖地震が起こった。  

地震が発生すると、災害復旧に関係者の全力投入が行われる。

自衛隊、消防隊、建設業界が、地域の被災者から感謝されながら活躍する。

そうした中で残念な思いをするのが実は建設業界なのだ。

テレビでも、新聞でもその活躍ぶりが画となってイキイキと報じられるが、

建設業界は画にはならない。

「俺達には制服がないから」とわかってはいるのだが、毎日のニュースを見るたびに

建設業界の人達は残念がる。

だからどうだということではないのだが、「俺達も一生懸命なのに」ということに

なりがちである。  今年、羽越水害の40周年にあたるが、40年前のあの大水害も

命がけで水魔と闘った建設業者のことはあまり報道されずにしまった。

建設ジャーナルでも40年前を回顧して特集する予定だが、

業者のそうした陰の力にふれられたらと思っている。
vol.15
〜業界余話(2)〜

 戦後日本の復興は、空襲を受けた所はその復旧から、

空襲を受けなかった地域は

長い間放置された荒廃からの復旧で復興の事業に入っていった。

その活力源となったのが電力開発だった。

戦後すぐの電力開発は原子力やLNG火力などはなかったから、

水力発電が主力だった。

大小の河川が豊富だった新潟県では、水力発電事業が大いに興った。

中でも全国的に注目されたのが

戦後初の県営発電事業となった奥三面の電源開発事業だった。

 この建設事業は最初は鹿島建設が施工した。

県知事選挙があって岡田正平知事が敗れ、

二代目民選知事として北村和男が登場すると、

地元建設業育成を旗印に、鹿島建設をはずし、

入札で落札した本間組、水倉組、高幸(十日町)の3社に発注した。

だが三面の電源開発事業は地元業者の手に余る難工事となり、

三者共に大きな赤字を出した。

水倉組はここだけだったが、

本間組と高幸はこの工事の前に

奥只見の電源開発工事にも意欲を持って突っ込んでいて、

そこでも赤字を出していた。

2つの赤字工事がダブルパンチとなって、

本間組と高幸は大いに苦しみ、高幸は倒産の憂き目を見た。

 実は本間組はこの2つの大赤字を挽回しようと

これも県営発電として注目された胎内川水力発電事業も受注して

ここでも赤字を負った。ダブルどころかトリプルパンチを食らった。

本間組倒産かと注目を集めたが、ここから立ち直る苦難の歩みが続いていった。
vol.14
〜業界余話(1)〜

昭和10年代全国的に名を馳せた長岡の高鳥組(高鳥博社長)のことを

2回にわけて書いたが、その時高鳥さんが

「私は鉄道の仕事をやっていたので、

県の仕事をしていた地元の業者の人達のことは殆ど知らない」

と言っていたことを紹介しておいた。

県発注工事の仕事で高鳥さんと違って全国的な活躍ということではなかったが、

新潟県の業界史に名を残している業者に布施幸蔵がいた。

「県庁の布施か布施の県庁か」

と囃されたほど県発注工事の中で大きな存在だった。

「布施さんに一度だけ会ったことがある。

ことづけを言いつかって訪ねたが、

玄関でその伝言を話しただけだが何という貫禄のある男かと思った」

と津野栄作が思い出を語っていた。

津野栄作は当時高鳥組にいて業界では知られた営業畑のつわものだったが、

布施の貫禄に心中うなったという。

 建設業協会史の取材をしていた頃の昭和42年頃は

まだ布施幸蔵を知っている人が何人かいた。

その人達が全部、「男の肝、人間の肝に惚れられるという人だった」と言っていた。

 布施は天然痘を患ったためにオッカナイと若い芸者達に言われた顔だったという。

しかし結局は女性にももてたという。

 布施は業界の人達を呼び捨てにしていた。

金巻組の金巻長作と植木組の植木亀之助の2人だけを金巻君、植木君と呼んでいたという。
vol.13
〜高鳥博のこと(2)〜

「高鳥さんなら元気だよ。80才になったと聞いているが元気だ」

という話を聞いて、その人が教えてくれた番号へ電話をかけた。

穏やかな声で「高鳥です」。

「実は新潟県建設業協会史の執筆を依頼されて仕事を進めているうちに

高鳥博さんのみごとな足跡を知って一度ぜひお会いしたくなって」

という話をしたら、「どうぞ」ということになって、

日時を約束した。約束の日に長岡の自宅を訪ねた。

玄関へ出迎えて下さったのが高鳥博さんご本人だった。

ニコニコ笑顔の印象的なご老人だった。

天下に名だたる足跡を残された方だからと

勝手に抱いていたイメージがあったのだが、

小柄で柔和な感じから、なんとも言えない温かい人柄がにじんでいた。

一時間ほどお邪魔したが、仕事の自慢にあたるような話は一言も出なかった。

「私は鉄道の仕事に打ち込んだので、

県庁の工事などで名を知られた方達とはほとんどお付き合いがなかったですね」。

「県庁の布施か布施の県庁か」と言われた地元の大物業者布施幸三や、

地元で活躍した業者達の話は何も聞けなかった。

高鳥組解散の決定についても、戦時中の成り行きでしたと、

さらりとした話ぶりだった。

それにしてもなんという穏やかな人柄かとあらためて感じながら、

業界史に名をとどめた大業者の家を心温まる思いで辞去した。
vol.12
〜高鳥博のこと(1)〜

新潟県の建設会社で全国に一番大きな足跡を残したのは、

長岡に本社を置いた高鳥組である。

全国の建設業者でトップから13位だった受注の記録がある。

高取組は本来が能生の業者である。

政治家としても抜群の業績を示した高鳥順作(貴族院議員)の会社として

知られていたが、長男の高鳥博が高鳥組の実績をそっくり、

弟に譲って長岡へ移り、高鳥組を別に興した。

能生では不便だからというのが高鳥博の言い分だったが、

長岡を基盤に大きく伸び、大正8年に合資会社を作り、

出資金10万円、大正10年に出資金25万円、

大正の末に出資金100万円の大台に乗せ、工事量も年間200万円を超えた。

高取博は工事の主力を鉄道に向けて行った。

当時土木工事の技術の優劣は、鉄道建設の優劣が目安だったと言われている。

特に優秀な技術がと目された業者が、鉄道の新線建設工事に参加出来たという。

高鳥に続いて鉄道工事で名を知られたのが

柏崎の植木組と加茂の小柳組だったという。

この天下の大業者の一つだった長岡の高鳥組が、戦時中に解散して今はない。

企業整備令が発せられた昭和17年に、

自分の理想とするところが行われなくなったと嘆じての行動だった。  

私はこの高鳥博に会いたいと思って消息を追った。

そして昭和41年か42年の夏に長岡で高鳥博に会うことが出来た。
vol.11
明治40年から丁度100年になる。

県下の主だった建設会社を見ると明治40年より古い総業の会社がある。

つまり創業100年以上の会社があるということだ。

御三家と呼ばれる福田組、本間組、加賀田組のうち、

福田組が明治35年1月、

加賀田組がそれより13年古く

明治28年5月の創業で、 長い歴史を数えている。

その2社よりも古い創業が植木組で明治18年4月である。

これらの会社の持っている会社の歴史は、

各社ごとに大きく重いものがあるに違いない。

創業の地は大坂だが、寺泊に移ってきて活躍した中元組は、

2代中元栄造社長の時代に100周年の祝いの宴を

町をあげての盛大な行事として行って話題となった。  

御三家のうちで昭和の創業が本間組で、

昭和9年10月に西湊町に看板を掲げた。

社長以下総勢7人が頑張って長足の伸びを示して注目された。

創業社長本間石太郎のみごとな人間ぶりが語りつがれている。

県下の利益筆頭の成績で注目される第一建設工業は

本間組よりさらに新しい発足で昭和17年9月の創業だ。

平成18年度の決算が純利益20億円という成果で注目された。  

今あげた会社はいずれも大きな夢を持って 一日一日を生きているわけだが、

この言いようもないような厳しい時代に

一層の夢を持って頑張り続けている。

その各社ごとの歩みを各社が

どのように残していくかも興深い部分である。
 
 

Copyright (c) 2005 KENSETSU JOURNAL. All Rights Reserved.