建設ジャーナル
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コラム    
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vol.10
先日或る人と県下業界についてのよもやま話をしているうちに、

本間組の階段の上がり具合のよさについての話が出た。

あれは本間石太郎さんのこだわりだという話になった。

本間石太郎さんが新潟県建設業協会の会長時代に、

県下の支部長達と曽我専務、子田事務局長と一緒に、

新潟県出身の衆参両議院に県下業界の問題点の解決を

お願いする陳情に出向いたことがあった。

二つの議員会館を歩いて廻ったが、 その時、石太郎さんが私に、

「この階段の感触を覚えておくといい。

どういう階段が一番上りやすいか、

ヨーロッパの一流ホテルを歩いてみたことがある。

あの時これが一番だと思った階段の高さと、

この階段の高さと同じなんじゃないかな」と言っていた。

本間組本社のロビーから2階〜4階までの階段の上りやすさは、

本間さんがヨーロッパで調べてきた階段を

ベースにして作られたものだと言ったら、

そういうことだったんでしょうねと、その人も頷いていた。

本間組の玄関を入ると客と対応するロビー、

それが終わるところからの螺旋階段になっている。

石太郎さんが一度出来た階段がもう一つ気に入らなくて、

壊して作り直させたという話を子田さんから聞いた。

それにしても今のような景況の時代だったら、

壊して作り直すところ迄やれたか、どうか。

昔はよかったなと、

画面のすみで誰かがため息をついているようなシーンが見えてきそうだ。
vol.9
新潟県建設業協会史のこと 完  

「新潟県建設業協会史」が好評でいろんな話が寄せられたが、

その中で一つだけこんな話があった。

「校正ミスがないのに驚いたよ」と。

校正は私が初校と再校を見、さらに三校まで見たが、

子田さんに相談して北陸建設工業新聞の木村編集長に四校を見てもらった。

校正ミスのない本と言われて嬉しかった。

ところが、数年後何ということなしに拓いて見たページに校正ミスがあった。

やっぱりなという思いで、あらためて読み直してみた。

すると校正ミスが3ヶ所ほど見つかった。

校正という作業はノーミスで当たり前、一つでもあればミスがあったということになる。

あらためて校正の厳しさを感じたものだった。

 協会史の思いでをいろいろと書いてきたが、

これはきりのないことで、この辺で終わりにする。

考えてみると、「新潟県建設業協会史」に関わった人達はみんな亡くなられた。

生存者は私だけになった。

私が亡くなっても、「協会史」はこの世に残って、

新潟県の建設業界の歩みを後から来る人達に告げていく。

「本」の重みをしみじみと思う。
vol.8
正月の業界人達がどのように過ごしておられるかは知らないが、

正月2日に福田さん、本間さん、加賀田さんのお宅をお訪ねして

年賀のご挨拶を述べていた頃があった。

今はいろいろ変化があってお訪ねすることはやめているが、

あの頃、正月2日のご挨拶は結構楽しかった。

福田家は福田正さんが出てこられることもあったし、

福田実さんが出て来られる年もあった。

福田正さんも福田実さんも楽しい雰囲気をいっぱい漂わせておられた。

 本間家は本間茂さんの時代。

外出されようとしている本間達郎さんと一緒になったりした。

本間茂さんも達郎さんも明るさは人一倍で、

訪問者達が明るい顔で帰ることが出来たと思われる。

 加賀田家はいつも加賀田達二さんの奥さんが出迎えて下さった。

田辺剛さんが社長になられた正月は「上がれ上がれ」と。

もう少しで会社の連中も来るからと言われたが、残念ながらご辞退して帰った。

 今名前を挙げた方達の中でも、

福田実さん、加賀田達二さんご夫婦のお三人は亡くなっておられる。

正月の在り様もいろいろと変わってきているに違いない。

 正月4日は建産連主催の賀詞交換会が新潟で開かれるが、

毎年スケールの大きい新年を祝う会として知られている。

今年も多くの官民一緒になっての

「明けましておめでとうございます」の幕が開くことだろうが、

建設業界の経済的な厳しさから考えると、

かってのようなお祝いムードが楽しめるかどうか。

 しかし、いずれにしても新年は新年である。

日常が厳しくとも、この日は大いに祝って福を呼び込んでやろうと

構えている人達もいるかもしれない。

 この交換会が終わるとそれぞれの会社の新年祝賀会に向かう人達がいる。

昔はそれ自体が豪勢なお祝いとなっていたが 、

今はそういう各社ごとのお祝いの華やかさが数少なくなってきている。

2007年が良い年であることを!
vol.7
〜「新潟県建設業協会史」のこと(6)〜
「新潟県建設業協会史」の取材の時、テープレコーダーを使わなかった。
話をする人達がテープレコーダーを据えられると
話がはずまないかもしれないと思ったことと、
記録として形のあるものとして残さない方がいいだろうと
思ったことによる配慮だった。
実際にテープレコーダーのマイクがあっては
話は出なかったろうなと思う場面がしばしばあった。
協会史の仕事を終えて新潟県建設業協会を去る時、
メモをとったノートの一切を置いてきた。
40年くらい前のことだし、そんなメモは全く残っていないだろうが、
もしテープに録音していたら、やはり何かの折に使ったかもしれないと思うと、
録音しなくて良かったなと時々思うことがある。
ああいう取材が出来て「新潟県建設業協会史」が書けたのも、
あの頃だったからとしみじみ思う。
私が今79歳。
私が話を伺った人達はみんな私より上の人達だったから、
亡くなられた人達が多いに違いない。
あの頃だったから昔の話をお聞き出来たということだったろう。
貴重な体験をさせていただいたものだと心から思う。
vol.6
〜「新潟県建設業協会史」のこと(5)〜
「協会史」の刊行も無事終了、
新潟県建設会館も竣工、
昭和43年の12月は何か充実した空気の中にあった。
子田事務局長が、
おめさんに協会に残らんかと本間会長が言うてるんだが、
ということを私に話した。
「大変有難いお話ですが、仕事も終わりましたし、失礼させていただきます」。
残りたいのはやまやまだったが、
自分だけいい目をしてはいられないという気が強かった。
12月いっぱいで新潟県建設業協会を去った。
やがて本間会長も協会長をやめる日が来て、
本間組社長に戻った。電話が来る。
「時間ないか。ちょっと来ないか」。
本間組の社長室で2人だけの時間が流れる。
あの剛毅な本間さんがと思われるだろうが、
呼び出しのかかった時の話の中味は、愚痴話だった。
じめじめした話ではない。
話がすむと、聞いていた私もスカッとするような気になった。
子田さんにそのことを話したら、
「本間さんも協会史からいい話し相手を見つけて良かったなあ」。
子田さんの笑顔がなんとも言えないいい顔になっていた。
vol.5

〜「新潟県建設業協会史」のこと(4)〜
「新潟県建設業協会史」は
昭和43年12月9日
新潟県建設会館の竣工記念式典の出席者に贈られた。
それ以外にも多くの人達に発送された。
子田さんが
「読売新聞から電話がきたが、
こんなによく書けている協会史は初めて読んだ。
読み始めたら止まらず、
終わりまで一気に読んだと言っていた」と笑顔で。
読めるものでなければというのが子田さんの指示だった。
子田さんの狙いが当たったわけだ。
全国建設業協会の機関誌や日本土木工業協会の機関誌なども
好意ある評が掲載されていた。
この仕事のために47.5kgまでやせて頑張ったことが思い出される。

vol.4
〜「新潟県建設業協会史」のこと(3)〜
本間石太郎さんの思い出はたくさんある。
「新潟県建設業協会史」という題字を、
はじめは雲洞庵の新井石龍禅師に書いていただこうということだったが、
そんなもったいないことは出来ない、オレが書くということで、
本間会長が書くことになった。
一生懸命に練習して、たくさん書いたものを、
協会へ持ってきて、子田事務局長に「見てくれや」と出した。
「何枚くらいあるんですか」「200枚以上だな」
「会長らしい。がんばりましたね」。
子田さんが鋏みを持ち出して、びっしり書いてある紙に鋏みを入れた。
唖然とした感じの本間会長に、
「会長ほどの人が200枚も書いた書に、
どれがいいとか悪いとかなんてオレ風情が
序列つけて選べるわけがないでしょうが」。
私に切り取った1枚を渡す子田事務局長。
その子田さんを「こいつ」という顔でにっこり見る本間会長。
みごとなシーンが忘れられない。
協会史のあのみごとな題字はこうしてきまった。
〜「新潟県建設業協会史」のこと(2)〜
 本間石太郎会長と初対面の場はなんとキャバレー香港だった。
会長が昼の時間がとれないということから、
会長の好きな北島三郎が「香港」へくる、
北島ファンの本間会長がそこへ行く、
「じゃおめさんも香港へ行って会長に会えばいい」。
子田事務局長の笑顔の提案で「そうします」ということになった。
「おお、君が小林君か、頼むわな」と本間会長との初対面 がすんだ。
「オレ、サブが好きでな」。
本間さんのなんともいえない笑顔を今でも思い出す。
それが暮れの12月20日すぎの或る夜。
1月4日の仕事始の日が私の新潟県建設業協会史仕事始の日となった。
当時の建設会館に一室を貰っての初出勤だった。
とにかく話を集めようということで、
インタビューのメンバーを本間会長と子田事務局長が話し合ってきめた。
その人達へ子田事務局長が電話して取材の日をきめていく。
一番最初のインタビューが河野利江さんだった。
業界人であると同時に、新潟県の土建談合の
初めからそれまでの流れの中心を歩んできた人だった。
 
〜「新潟県建設業協会史」のこと(1)〜
 建設業界人で最初に親しくなっていただいたのは、本間石太郎さんだった。
前回「忘れられない思いの最高の人」として書いた
子田重次さんが或る日電話をかけてこられて、頼みたいことがあると仰る。
早速子田さんが事務局長をしておられる新潟県建設業協会へ出向いた。
「新潟県建設業協会史」を書いてもらいたいんだという話に、
それはだめですとお断りした。
業界に入ったばかりで業界のことも協会のこともまだ何もわかりませんと言ったら、
「昭和30年の新潟大火で資料はみんな焼けて何もない、 だから誰がやっても白紙なんだ」と。
「本当言うとオレがやりたいのさ」。
子田さんの目が素敵な思いを湛えていた。これが子田さんの本音だと思った。
多忙で出来ない自分の代わりに、「コバよ、おめさんがやってくんねかな」。
ジンときて、尊敬する子田さんの身代わりならば、命がけでもやらなければと思った。
「やらせて下さい!」「そうかね!」二人の思いが一つになった。
「本間会長に紹介するさ。近く電話する」「はい」。


 
〜「 回想 」〜
 建設業界紙の世界に生きて多くの人に出会ったが、
忘れられない思いの最高の人は、子田重次(こだ・しげじ)さん。  
 新潟県土木部の初代建設業係長から(社)新潟県建設業協会事務局長。
日本一の事務局長と言われた。後に同協会専務理事に。
 良く人を愛した。同郷の大先輩相馬御風に師事して、その歩みから良寛を深く愛した。
先般亡くなった水上勉を嫌った。
水上勉が良寛の悪口を自分の作品の中に書いたことで怒った。
水上勉はかつて良寛のことをすばらしいと書いていたが、
或る年全く逆な立場に立って良寛批判をし始めた。
子田さんは怒った。
新潟で水上勉にある出版社の仲立ちで逢った時、
「新潟で良寛と田中角栄の悪口を言うやつは許さん」と怒った。
「あいつはそのうち又良寛に帰ってくる」と言っていたが、
又変転して良寛を素晴らしいとほめそやして水上勉が書き始めた。
「子田さんの言っておられたように良寛に帰ってきましたね」と言った人に、
にこりともせずに怒りの目を向けた。
おれはどうでも書けるという水上勉の生きざまを、子田さんは生涯怒りの思いで見つめていた。
「ああいうのを売文業者と言うんだ」と。
陰で言うだけでなしに、本人にズケズケと言う硬骨漢だった。
 建設人の世界に、あのような骨の髄からの文化人がいたことを懐かしく思い出す。
 
 

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